4. 泣き出しそうな人へ
彼等の『物語』が本当に始まったのは、風の洞窟にての出来事から暫しの時が流れた後だった。
もうそろそろ夏が終わる、そんな或る日。
かつてはトラン解放軍の軍師を務めたこともあるレオン・シルバーバーグが、今宵、ルカ・ブライトが同盟軍本拠地に夜襲を掛けようとしている、という密告状を持ち込んで来た、その日に。
彼等の、『本当の物語』の幕は上がった。
セツナにとって、大切で、大好きな人物の一人である同盟軍正軍師のシュウが、泣き出しそうな顔をしたことによって。
ルカ・ブライトを迎え撃つ為の軍議を終えた後。
慌ただしく支度を整えて行く仲間達を、占領した屋上より、戦いなど何処吹く風の勢いで眺めながら、セツナは少しばかり難しい顔をしていた。
「どうしたの。渋い顔しちゃって」
そこへ、何故かセツナの居場所を嗅ぎ付けるカナタが、のほほんとやって来て、むう、とした表情の彼の隣に腰掛け、ツンと、皺の寄った眉間を突く。
「あのですねえ……」
ピ、と突かれた眉間を撫でながらも難しい顔を解かず、くるっとセツナはカナタを見遣った。
「シュウさん、なんですけど」
「あの、感情欠落無表情・括弧見た目は括弧閉じ、な軍師様が、どうかした?」
「感情欠落無表情・括弧見た目は括弧閉じな軍師……。うーむ、正しいですね、マクドールさん。──じゃなくって。さっき、レオン・シルバーバーグが夜襲の密告状を持って来てから、シュウさん、変なんですよね」
シュウを揶揄したカナタの言葉に、うんうん、と頷き掛け、今はそんな場合じゃない、とセツナは、益々眉間に皺を寄せて、悩みの元を語る。
「変? ……ああ、変と言えば変だったねえ。珍しく、顔に表情があった」
「ですよね? マクドールさんも、そう思いました? シュウさん、何か……泣きそうな顔してたんですよねー……。それで僕、困っちゃって……」
己の言葉にカナタが相槌を返してくれたのに気を良くし、少年は饒舌になって、
「泣きそうな顔……と言えないこともない、か。うん。僕には、泣きそうって言うよりは、苦しそうな顔に見えたけど。セツナは、その理由を知ってるの?」
「実はー……。誰にも内緒にしてたんですけど。少し前、深夜にお散歩してたら──」
「──散歩? 深夜に? ……まさか、一人で?」
「……あ。…………御免なさいぃ……」
うっかり、言わずとも良かったことまでセツナは洩らしてしまい、ちろっとカナタに睨まれて、どよん、と項垂れた。
「まあ、それはいいよ。今更言っても仕方ない。……で?」
しかし、カナタはセツナを叱らず、話の続きを促す。
「ああ、それでですね。その、お散歩してた時に。僕、見ちゃったんですよねー……」
「何を」
「シュウさんと、ルカ・ブライトが会ってる所を……。ほら、お城の近くに、デュナン湖を見下ろせる小高い丘があるじゃないですか。あそこで、シュウさん……ルカ・ブライトと一人っきりで会ってて。何か言い争ってる風でもあったんですけど……抱き合ってる風でもあって……」
「シュウと、ルカ・ブライトが、ねえ……。随分と面白い組み合わせだな」
唸りながらのセツナの告白に、くすくす、愉快そうにカナタは忍び笑った。
「笑い事じゃないですよぅ。他の皆が気付いたかどうかは知りませんけど、そこへ来て、シュウさんの、あの泣きそうな顔でしょう? 二人がどういう関係なのか、なんて僕は知りませんけど。シュウさんにとって、ルカ・ブライトって大切な人なのかなー、とか、そうだったら、僕が殺しちゃいけないんじゃないかなー、とか思えてきちゃって……」
「成程ね。──で? セツナはどうしたいの?」
僕は、どうしたらいいんでしょうねえ、と天を仰いだセツナを、何時ものように、よしよし、と撫でて、悪戯っ子っぽく微笑み、カナタは少年の意志を問うた。
「判ってるくせに。マクドールさんってば……」
「さあ? どうかな」
「案外、意地悪ですね、マクドールさん。──もしもシュウさんが、本当は彼に生きてて欲しいって願ってるなら、彼を殺しちゃいけないんだろうなって、僕は思います。……だって、シュウさんだって、僕には大切な人ですもの。皆幸せっていうのが、僕、好きなんです」
年上の友人のような兄のような人の、意地の悪い笑みを睨め付け、さらっと、セツナは言った。
「じゃあ、助ける?」
「はい。助けます。シュウさんが、本当にルカ・ブライトを大切に思ってるのが判ったら。但……、皆のこと、どうやって誤魔化そうかなあ……って……」
「セツナがそれでいいのなら、僕もそれでいいと思うから。セツナ、手伝ってあげるよ。……あのね…………──」
カナタは。
良い覚悟、とセツナの瞳を覗き込み、にこっと笑むと、ツイ……と少年の胴着を引いて、何やら耳打ちをした。
「あ、成程」
こそこそと囁かれたことに、ぱあっとセツナは顔を輝かす。
「但し、これは完全とは言えない。ルカ・ブライトの本当の実力が何処まで高いのか、僕には未知数だしね。駄目だと思ったら手を引くこと。いいね? 今言ったように、シュウとホウアン先生とビクトールなら二つ返事で言うこと聞くだろうし、問題ない人選だしね。ビッキーは、僕が後から連れてくから」
「はーーーい。宜しくお願いします、マクドールさんっ。じゃ、僕、そろそろ呼ばれる頃ですし、丁度いいからシュウさんに張り付いてますねっ」
授けられた『知恵』に嬉しそうに笑みつつセツナはいそいそと立ち上がり、屋上を去った。
「……面白くなりそう」
遠くなった少年の背中を見ながら、カナタはくすっと忍んで。
朱色の夕焼けに、己が右手を翳した。