天山の峠から見渡せる草原の彼方一杯に広がっていた夕焼けが、徐々に小さく弱くなって行くのを見遣っていたカナタは、少し離れた場所から鈍い音が響いたのを知った。
だから、ああ……、と。
心持ち上向いた彼は、風に吹かれながら両の瞼を閉ざす。
直ぐそこにある夜の到来を告げる一陣の風が去った後、ゆっくりと瞳を開いて彼は、棍を握る己が右手を見下ろした。
カラン……、と音立てて得物を大地に捨て、皮の手袋を外し、眩しい夕焼けを遮るように眼前に翳せば、そこに刻まれた魂喰らいの紋章が、鈍く光っていた。
「……そう」
紋章の訴えに緩慢な返事をし、手袋を懐に突っ込んで、素手のまま、カナタは棍を取り上げる。
淀まぬ足取りでセツナの消えた方へと向かえば、そこには、地に伏したジョウイを抱き抱えて唯々泣いている、仔犬のような少年の姿があった。
「…………セツナ」
そっと、その背中にカナタは声を掛けた。
彼の呼び掛けに答え、泣き濡れたままセツナは振り返る。
「……マクドールさん…………」
「ジョウイ君は……逝ったんだね」
「……はい……」
眠っているような綺麗な横顔を曝し、セツナの膝上で息絶えているジョウイを、カナタは見下ろした。
そうしてからセツナを見遣れば、カナタと同じように今は手袋が外された右手に、ジョウイの宿していた黒き刃の紋章を取り込んで、輝く盾の紋章から昇華した、二十七の真の紋章の一つ『始まりの紋章』が輝いているのが窺え、曖昧な表情を、カナタは浮かべる。
「『その道』を……君は選んだんだね」
「…………いけないこと、かも知れませんよね。間違ってたのかも、知れませんよね。──マクドールさん……。僕は、ジョウイと二人きりで会ってた間だけ、僕が未だ同盟軍の盟主だってこと……忘れちゃいました……」
幾つかの選択肢はあったろう未来の一つより、親友を倒す、という道を選んだセツナの傍らにカナタは腰掛け、視線を合わせてきた彼へ、泣き濡れながらセツナは、消え入りそうな笑みを向けた。
「間違ったこと……ではない、んじゃないかな。君が、そう望んだのならば」
「……そう、なんでしょうかね……。──僕は、『勝ち続けて』来ましたから。ルカさんや、クルガンさんやシードさん達に、生きて償え、って。ずっとずっと、そう言ってきました。それが、あの人達の幸せに繋がるんだって、そう信じてるからですけど……でもね。重ねて来た罪があるなら、生きて償ってって。例えそれが、死ぬ程苦しいことでも。どんなに冷たい仕打ちだとしても。僕はずっと、望んできたんです」
「……そうだね」
「でも……でもね、マクドールさんっっ。……僕はそれを、ジョウイには言えなかった……。……ジョウイの幸せって、何処にあるの、って……。訊いたんです、僕。叶えてあげたかったから。皆一緒に幸せっていうのがいいよねって、今でも僕は思ってて、諦めてもいないから。……でも、そうしたら、ジョウイは。僕とナナミを守ることが幸せだった、って言ったんです。この先に、幸せなんて、見えないって……」
「そう……。そんなことを、ね」
「……生きていたくなんて、ないって。ジョウイの言うことは、僕には、そんな風にしか聞こえなかった。──ジョウイは、本当に、僕とナナミの為だけに、全てを捧げてくれたのかも知れない。でも、何時かミューズでジョウイ自身が言ったみたいに。僕達がやって来たことは、もう、僕達だけの問題じゃなかった。本当は嫌だったのかも知れなくったって、ジョウイはハイランドの皇王になって、僕は同盟軍の盟主になって。僕がやって来たこと、ジョウイがやって来たこと、それを考えたら……僕はジョウイにも、生きて償えって、そう言わなきゃいけなかったんだろうに……。僕は皆に、それを求めて来たんだから……。でも、でもおっ! 生きていたくなんかなくって……、死んでしまうことがジョウイの望みなら……ジョウイの幸せなら……って………………──。マクドールさん……。僕……間違ってましたか……」
未だ己が膝上にある、ジョウイの亡骸より腕を離して、セツナはカナタに縋り付いた。
「…………人間の為すことは。きっと、全てが間違っていて、全てが正しい。……君はね、セツナ。何一つ、間違ってなんかいない。──大丈夫。何が遭っても、僕は君に、そう言える」
縋り付く小柄な体を抱き締め、カナタは言った。
何処までも深く。唯、甘やかすように。
「……キャロに行こうか。ゲンカク老師や、ナナミちゃんが眠っている場所に。ジョウイ君も、土に、風に、全てに還してあげよう……」
「はい……。はい…………っ。でも、マクドールさんっ……。一晩中、僕はここで泣いていたいっ……。今夜だけでいいからっ……」
「君の、気の済むようにおし。僕は、君の望むように、僕の望むように、君の傍に、唯、在るから」
──そうして、カナタは。
今宵一晩、親友の命を奪ったこの場所で、ひたすらに泣き濡れていたい、と言ったセツナを、体の全てで包み込んだ。
泣き濡れて、泣き濡れて。
唯、はらはらと泣き濡れて、寒さも熱さも感じない一夜をセツナは過ごし、そんな存在を包み込むだけの一夜をカナタは過ごした。
けれど、時の進みと共に冥い夜は去り、朝がやって来て、天山の峰より昇った朝日が、彼等二人の眼前に広がる草原を照らし始めた時。
涙が枯れる程に泣き尽くしたセツナが、伏せていた顔を上げた。
──ナナミが死んだ夜、カナタの宿すソウルイーターへしたように、セツナは、己が右手に宿った、始まりの紋章に頬を寄せる。
一頻り、そうしてセツナは、今度はカナタの右手を取り上げ、仕舞い込むように胸へと抱き、カナタはセツナの頭
「…………共に、ゆこうね」
「……はい。マクドールさん……」
「セツナ? もう、その呼び方は止めて。カナタって、そう呼んで」
「……はい、カナタさん……」
──恐らくは、ここから全ては始まったのだろう天山の峠にて。
抱き合いながら少年達は、そんな言葉を交わした。