ファンは、どちらかと言えば、まどろっこしいことが嫌いな質だ。

故に、細道を抜けた先の溜池の桟橋に腰掛けて釣り糸を垂れていた、己と大して歳の頃が変わらぬ風に見えたチュアンの背中を見付けた時、何一つ躊躇うことなく、つかつか近付いた。

チュアンが『ファン将軍』だというコウの誤解が、単なる思い込みならそれで良いけれど、そうではなくて、そういう風に思い込ませることを、眼前の人物がしていると言うなら、この場でとっとと片を付けよう、そう考えて。

「あの、すみませんが」

一応は礼儀正しく、ファンは相手の背中へ話し掛けた。

「……何? 僕に何か、用事でも?」

そうしてみれば、相手は、釣りを止める気配も見せず、首だけを巡らせて、背後に立ったファンを見上げ、にっこり、と笑んでみせたので。

「実は、折り入ってお話が」

負けず劣らずの、にっこり、とした笑みを浮かべてファンは彼との『話し合い』を、片付けてしまおうとした。

……確かにファンは、回りくどいことが余り好きではないけれど、別段、それ程『物騒』な性格をしているという訳ではない。

が、以前、バナー村へ向う為の船が出ている水門の街ラダトで、一〇八星だと判明し、今でこそ仲間の一人となったホイに、己の名と肩書きを騙って無銭飲食をされるという経験を彼はしていたので、もう、あんな騒ぎは二度と御免だと。

ホイの起こした騒ぎに懲り懲りしていたファンは、二度と同じ過ちは犯さない、の決意を持っていた。

「話? どんな? 耳を貸してあげられることと、貸してあげられないことがあるけど」

と、相手は、ファンが内に秘めたその決意を、笑みつつも察したのか。

ファンを、頭のてっぺんから足の先まで眺める態度を取って、何処か、からかっているような声音で。

『大人しく』はしてあげないよ、と言わんばかりになった。

故に、同盟軍を預かる若き盟主は、もしかしてこの彼も、ホイの同類かな、と、身を強張らせ掛けたが。

「坊ちゃんっっ! 坊ちゃん、大変です、坊ちゃんっっ!!」

先程、コウが引き付けてくれた筈の、見張り番の青年が取って返して来て、向かい合う、と言うよりは、『対峙』を始めた二人の間に割り込んだので。

釣り人だった彼とファンとが、少々物騒と言える雰囲気を漂わせるよりも先に、話は、彼等二人共が想像しなかった方向へと流れ始めた。

コウの両親の営む宿屋の宿帳に、チュアン、と名を記した彼の供、金髪で、人の良さそうな面差しをしている彼は、坊ちゃん、と呼び掛けたチュアンへ向け、大変なのだと散々喚き立てた後、漸くファンの存在に気付き、一応、己の名はグレミオだと名乗った。

だから、礼には礼をと、ファンも己の名を名乗り。

立ち話は後で、と自分達を急き立てるグレミオに、チュアンと共に腕を引かれる格好で、ファンは宿屋へ向った。

戻ったそこでは、ふらりと消えてしまった彼を待ち侘びていた同盟軍の仲間達と、コウの両親、それにコウの姉のエリがおり。

「…………えーと、グレミオさん、でしたっけ。──グレミオさん、これ、何の騒ぎですか? 僕は只、んーと…………」

面々を、くるりと見渡してファンは、傍らのチュアンへ向き直った。

「……あ、僕? 僕は、チュアン・マクドール。宜しくね。……ファン、だっけ? 君の名前」

向き直った彼を、若干見下ろすようにして、チュアンは、そこで初めて、己の名を名乗った。

「……………………チュアン……マクドール……? 何処かで、聞き覚え……。──って、あーーーーーっ!」

自分と、同じくらいの年齢だろう相手に、見下ろす風にされたのが、少し気に入らなかったけれど、それよりも、チュアンが名乗った名前に、記憶の底を浚われて。

深く深く首を傾げ、一瞬の後。

ファンは大声を上げる。

「ビクトールさんやフリックさん達が言ってた! ルックやフッチも話してた! トランの!」

「ビクトールやフリックや、ルックやフッチ? ……ふーん、彼等は今、君の所にいるんだ。……君、あれだろう? この辺りで最近噂の、同盟軍の、だろう?」

────たった今、ファン自身が告げた、ビクトールやフリックやルックやフッチ、と言った名の、今はファンの仲間で、デュナンでの戦いの宿星で、三年程前、今日もファン達が向おうとしていたトランで勃発した解放戦争に参加した者達が、その時、ファンの供をしていたら、チュアンやグレミオが『誰』なのか、二人を一目見た時に、判ったのだろうけれど。

幸か不幸か、今、その宿屋にいるファンの仲間達は皆、トランの戦いを知らぬ者達ばかりなので、チュアンに、『チュアン・マクドール』と本名を名乗られて漸く、ファンは、眼前の人が『誰』なのかに、思い当たった。

三年前のトラン解放戦争を戦い抜いた者達の口伝てで、その存在を知らされた、トラン建国の英雄、その人だ、と。

故に彼は、唯でさえ大きな瞳を丸くして、チュアンを指差さんばかりの態度を取ってしまったけれど、『トランの』、と言われた当人は、軽く肩を竦めるのみで。

逆に、君は『同盟軍の』、だろう? と、物言いた気に笑んだ。

「……え、えっと。……ええ、まあ……」

チュアンの、咄嗟に出てしまった己の言葉をなぞるような物言いと、何か言いたげな笑みを。

この場でそれを語り合うのは、無し、と言外に言われていると受け取って、ファンは言葉を濁す。

「あの、坊ちゃん? ファン君? そんなこと、悠長に言い合ってる場合じゃないんですってばっ!」

一気に跳ね上がった少年のトーンが、チュアンに嗜められたように下がったのを、話の割り込み時、と思ったのだろう。

そこで強引に、グレミオが話を戻した。

「あ、はい。何でしたっけ?」

「実はですね、ここの宿屋の息子さんの、コウ君が。バナーの森に入り込んで、挙げ句、山賊に攫われてしまったようで……」

「え? でも、コウ君は、グレミオさんに声を掛ける為に、一寸峠道の入口に入っただけの筈ですけど。……山賊……?」

チュアンとファンを、放っておいたら何時まで経っても埒が明かないと、そう思ったのかも知れないグレミオが説明した、『焦る事情』を聞き終え。

そんな筈はないのに、とファンは首を傾げた。

「間違いありませんよ。何やら大きな──例えば、コウ君くらいの子供が入れられていてもおかしくないような袋を担いで、あの峠をトランの方へと向って行った、山賊風な身なりの男達の背中、私も見ましたから」

だがグレミオは、間違いではない、と残念そうに首を振り。

「そんな……。じゃあ、助けに行かないとっ! 僕、行って来ます、御免、皆も付き合ってっっ!」

やっと、グレミオの言うことが、冗談でも間違いでもないと悟ったファンは、バッと身を翻して、仲間達と共に、宿屋を飛び出して行こうとした。

「坊ちゃん。私達も行きましょうっっ」

自分がコウを助けに行く、と踵を返したファンを見て、グレミオが、チュアンを促したが。

「ああ、判っ……──

金髪の彼の促しに、当然のように頷き掛けつつも、チュアンは。

言葉半ばで突然顔を歪め、急に痛み出した風に、左手で右手の甲を押さえ、その場に、踞り掛けてしまった。

「…………えっ。どうしたんですか……?」

宿屋の入口を潜り抜けようとした途端、視界の端を掠めたその光景に、ファンは驚きと戸惑いの入り交じった声を洩らし。

「……何でもない」

苦しそうに。けれどにっこり、と。

近付き屈み、目の高さを合わせて来たファンへ、チュアンは首を振った。

「何でもないのに、貴方はそんな風に痛がるんですか?」

「…………何でもないこと、では、あるけれども。それと痛みは又、別物、だから」

「じゃあ、何でもないってことじゃあないでしょう? 大丈夫なんですか……?」

「………………大丈夫、と言うか……。まあ……、うん。……君が噂通り、『輝く盾』を持っているなら、判るだろう?」

「……『紋章』、ですか……? ──気合いですよ、そんな物」

「…………気合い、ねえ……」

「僕のじーちゃんが言ってました。自分が踏ん張ろうと思えば何時だって踏ん張れるし、何とかしようと思えば、大抵のこと、何とかなるって。世の中、そういう風に出来てるって。僕も、そう思います。だから、元気出して下さい、マクドールさん」

放つ言葉と態度が相反しているチュアンへ、ファンは勢い良くそう告げた。

「……君、面白いね」

「……それ、褒めてますか?」

「一応」

「…………どうも」

──それまで。

曰く『痛み』の所為だろう、きつく細めていた瞳を、元気出して下さい、とファンが告げ終えた途端、すっと、元に戻して。

褒められているのか貶されいるのか、判断し辛い評価に不満そうな顔を作った少年の機嫌は、余り意に介さず、少しばかり億劫そうに、チュアンは立ち上がる。

「……お待たせ。じゃあ、行こうか。コウ君、助けに行くんだろう?」

そうして彼は、今の出来事が、まるで夢か何かだったかのように。

己の所為でそうなっているのを綺麗に棚に上げ、跪いたままだったファンへ、促しを掛けた。