────数ヶ月前まで、ジョウストン都市同盟、と呼ばれていたその領内と、トラン共和国領内との境に位置する、鄙びたバナー村の片隅で。

チュアン・マクドールとファンが巡り逢った時に起こった出来事は、そんなようなものだった。

その後、山賊に誘拐されたコウ少年の後を追って、彼等や彼等の仲間達は、山賊退治と魔物退治の双方を行い、無事にコウを取り戻して。

その後にも幾つかの『出来事』をこなして、グレッグミンスターにて一泊し、翌日、バナー村へとコウ少年を送り届けた時には、もう。

チュアンとファンの二人は、以前から互いを良く知っていた、仲の良い友人同士のように、笑いながら親し気に語り合う仲になっていた。

相変わらずの騒々しい足音を立てて、デュナン湖の畔に建つ、同盟軍本拠地本棟最上階の、ファンの部屋を、ファンの義姉のナナミが訪れたのは、その日の午前中だった。

バナーの村で、チュアンとファンとの二人が出逢って、数週間程が経った頃の、とある日の、午前。

「ファンー、どうしたの? 出掛けるんでしょ? グレッグミンスターまで交易に行くんでしょ? 皆、ビッキーちゃんの所で待ってるよ? 支度、出来てるんでしょ? ほら、急いだ、急いだ!」

ノックもせずに、ガンっ! と義弟の部屋の扉を開け放って、賑やかに廊下を駆けて来たその調子のまま、部屋に飛び込んだナナミはそう言い。

出掛ける為の支度はすっかり整っているらしいのに、大きな部屋の片隅にある、天蓋付きベッドに、ちょん……と腰掛けている彼の姿を見付けて、彼女は不思議そうに首を傾げた。

「…………どうしたの? 具合でも悪い?」

「……ううん、そういう訳じゃないよ、ナナミ」

ファンにしても、ナナミにしても、三十年程前、ジョウストン都市同盟では、英雄と謳われていたゲンカク老師に拾われた孤児だった、との過去を持っているから、彼等には血の繋がりはないけれど、本当に幼かった頃から共に育って来た姉弟は、義理とは言え、とても似た性分をしているらしく。

元気であることは、己の取り柄の一つだ、と自覚しているように、ファンの取り柄の一つも、己と同じく『元気』なことであるのを承知しているナナミは、義弟のその姿を、大変らしくない、と怪訝そうな顔で見詰め。

義姉に拵えられた、その怪訝そうな顔を見てしまったファンは、慌てた風にそれを否定してみせたけれど。

「嘘。何処からどう見たって、元気なさそうに見えるよ? お腹でも壊してるんじゃないの?」

別に、具合は何処も悪くない、との義弟の言葉を、ナナミは信じなかった。

「だから、そうじゃないってば。……その……一寸考え事」

「…………ふーん。考え事、って……。具合が悪くってそうしてるんじゃないんなら……。あ、判った。何か、悩みがあるんでしょ。何でも良いから、お姉ちゃんに言ってみてよ」

「大袈裟だよ、ナナミ。そういう訳でもないってば。本当に、一寸、ぼんやりしてただけ。──御免ね、待たせちゃって。皆も、待ってるって言ってたよね。急がなきゃ、だよね」

「あ、うん、そうだった。皆待ってるよ。急ごうっっ」

どうしても、義弟の言葉は、ナナミにとっては信じるに値しないそれだったけれど。

どうでもいい話なんてしてる場合じゃないよ、と言った感じの口調を取ったファンに、行くよ、と言われて彼女は、瞬きの魔法を使う少女、ビッキーが守る大鏡の前で、共にトランまで行くことになっている仲間達を待たせたままなのを思い出して、くるり、踵を返した。

「あ、ねえねえ、ファン」

「んー? 何?」

「向こうに行ったら、マクドールさんの所にも行くんでしょう? 今から出たら、何時頃にあっち着くかな。午後遅くかなあ。……お邪魔したら、きっとグレミオさんが、お茶とか御馳走してくれるよね。楽しみだなー。グレミオさん、必ずおもてなししてくれるんだもん。お茶も手作りのお菓子も、すっごく美味しいし。今度、お菓子の作り方、教えて貰おうかな。……あ、そうだ、お土産持った?」

義弟と共に部屋を出て、足早に本棟の一階広場へと向いながら、ナナミは隣を歩く彼に、そう言う。

「……えっと。あー……、今日は、マクドールさんの所には寄らないよ?」

「えっ? そうなの? 折角グレッグミンスター行くのに? 今まで、あの街に行く時は必ず、マクドールさんの所に寄ってたじゃない。なのに今日は寄らないの? ファンだって、何時も何時も、グレミオさんが作ってくれるおやつ、楽しみにしてたし、マクドールさんと仲良くなれて嬉しいーって、ここの処ずっと、懐きっぱなしだったくせに」

「それは、そうだけど……。でも、今日は只、交易しに行くだけだし。何時も何時も、一緒に戦って下さいーって、マクドールさんにお願いするのも悪いし。グレミオさんにだって、申し訳ないし……」

「…………ふーん。……まあ、ファンがそう言うんなら、お姉ちゃんはそれでいいけど。──あーあ、残念だなあっ。グレミオさんのおやつ、楽しみだったのになーっ」

「だから。それが申し訳ないんだってば……」

その日の彼等の目的地は、黄金の都と名高い、トラン共和国の首都、グレッグミンスターだったから。

バナーの村での出来事よりこっち、暫くの間は故郷に留まるから、何か遭ったら何時でも、と言ってくれたチュアン達の許へ、その言葉に甘えるように、ファンは足繁く通っていて、故に当然今日も、義弟は何時も通り、マクドール邸を訪れるものだと信じ切っていたナナミは、否、の回答に、つまらなそうに頬を膨らませて。

たまには遠慮しようよ、と、そんな義姉にファンは、小さな苦笑を送った。

何時の間にか、夏という季節は過ぎていて、気が付いたらもう、風の匂いは秋のそれだった。

だから、この季節、この家で、こんな風にしているのも、久し振りのことだ、と。

チュアンは自室の窓辺に腰掛けて、ぼんやり、外を見ていた。

「どうしてそういう、行儀の悪いことをなさるんですか。この家は、外から窓辺が丸見えなんですから、止めて下さい、坊ちゃん」

ぼうっと、何をするでもなく、二階の窓から下を覗き込んでいたら。

午後のお茶を持って来たグレミオに小言を垂れられ、ムスっとした気配を漂わせて、彼は振り返った。

「いいじゃないか、別に。僕の家の僕の部屋で、僕が何をしていようと、構わないだろう? 通りすがり、僕を眺める『世間』も、別に気になんて止めはしないよ」

──チュアンは、己の周囲を取り巻く者達に、説教をされるのが好きではない。

それは勿論、聞き届けなくてはならない苦言にまで、無闇に噛み付くような真似はしないけれど、例えば、今グレミオが口にしたような、所謂小言を与えられるのが、彼は嫌いだ。

故に、あからさまに、『僕は機嫌を損ねました』という風に、彼はグレミオへ文句を零した。

「直ぐ、そういうことを仰るんですから……」

だが、長年彼に仕えて来たグレミオには、そんな態度を取った彼をあしらうことなど、簡単な話なので。

お茶の支度を乗せた盆を、扉を潜った直ぐそこにある机の上に乗せて、チュアンの不機嫌を流した。

「お暇なんですか? 退屈なら、散歩とか、釣りとか、行かれたらどうですか? 最近は、ファン君達も、来ないようですし」

「……そう言えば、来ないね」

「そう言えば……って。お気付きでしょうに。──どうしたんでしょうね。忙しいんですかね、色々と」

「多分、ね。あの子にはあの子の、事情があるんだろう、多分。────グレミオ。用がないなら放っておいてくれないか。僕は、一人でお茶が飲みたいんだ」

はいはいと、慣れた仕草で主の不興を流した、その態度がいけなかったのか。

それとも、同盟軍盟主である少年のことに絡めて、他愛もないことを口にしたのがいけなかったのか。

チュアンは、グレミオの態度か科白か、その何れかに、一層機嫌を損ねられた風になって、彼を追い出しに掛かった。

「そうですか? では、ごゆっくり」

主の、その様へ。

おや、これは随分と根深そうなご機嫌斜めだ、と、内心でのみ驚いて、が、それを表には出さず。

呆れているような、困っているような、曖昧な笑みだけを残して、グレミオはチュアンの部屋を出て行った。

「………………何で、よりによって…………」

パタリ、静かな音を立てて、グレミオが出て行くのを待ち。

陣取ったままの窓辺で、ボソっとチュアンは独り言を洩らした。

「……良いんだよ、来ないなら来ないで、それで」

そうして彼は、再度、独り言を零すと。

腐っている気分を晴らそうとでも思ったのか、徐に立ち上がって、壁際に立て掛けておいた己が得物、天牙棍のみを掴み、ひょいっと。

誠身軽に窓辺を乗り越え。

二階の自室から、正面の大通りへと、勢い良く飛び降りた。