────例え、己とファンとの間に、如何なる関係が横たわろうとも。
決してそれは、己とテッドの関係に置き換わることは有り得ない、と。
チュアンは確信している。
それはそれ、これはこれ、だ。
何時の日か、ファンが、己の『親友』とも言える存在と化したとしても、彼とテッドは、『別人』。
だから、それは良い。それは多分、受け入れられる、と。
チュアンは、そうも思っている。
……でも。
三年前に終わったあの戦争の中で、テッドを失ってしまった直後。
永く永く、それはそれは永く続いて行くだろう人生の中で、自分が何を『取り戻した』としても、もう二度と、決して、『親友』は得ない、と決めたのに。
どうして、こうなっているのだろう……、──そんな想いに駆られ、チュアンはまじまじ、その時ファンを見詰めてしまった。
薄い光を仄かに弾く、水晶ばかりに囲まれた、陰鬱としたあの谷で、テッドを失った時、胸の中に刻まれた熱さを、今尚己は忘れていないのに。
そして何より、テッドが占めていた『位置』を、他の何者かが占めることなど、未来永劫有り得ないのに。
………………だから、その日を境に、チュアンは。
暫くの間だけでも、ファンと戯れるように過ごすことを止めようと、そう思った。
けれど、『成り行き』は早々、チュアンの思い通りにはならなく、ふらりと故郷の街の直中へ、散歩に出てみれば、偶然、今は会うのは止めようと、そう思った相手と鉢合わせてしまって。
結局、何時も通り、己が生家に泊まって行くことになったファン達との一時を、何とかやり過ごし、訪れた真夜中。
らしくもない溜息を一つ吐いて、昼間そうしたように、開け放った自室の窓から、チュアンは大通りへと飛び降りようとしていた。
一人深夜の散歩と洒落込めば、多少なりとも、このもやっとした気分が晴れるのではないか、そう思って、彼は『脱走』しようとしていたのだが。
窓枠を乗り越えようとした瞬間、ガシャリと、屋根の上から激しい物音が響いて、チュアンは動きを止めた。
耳に届いたその物音は、さも、何者かが飛び降りた時に立てる音と聞こえて、まさか、『誰が住んでいるか』知らぬ者はいないだろうこの館に忍び込もうと考える程酔狂な人間など、早々はいないだろう、と思いつつも。
彼は窓辺より引き返し、部屋を突っ切り廊下へと出て、広くて長い廊下の突き当たりにある小さな家事部屋から、屋根の上へと出てみた。
気配を殺し、先ずは首から上だけを覗かせて、辺りを見回してみれば。
大の字になってひっくり返っている、ファンの姿が見て取れ。
「そんな所で、何を……」
しまった、と思った時には既に彼は、思わず、の一言を、少年へと投げ掛けていた。
「…………こんばんは」
──そこにいるのが、夜盗の類いではないと判れば、それで良かったのに。
思わず洩らしてしまったチュアンの声を、ファンは拾って、夜目にもはっきりと、困惑の色と判る表情を作り。
「……やあ」
「こんばんは、って言うのも、間抜けな挨拶ですよね」
「んー。そうかも」
困惑に、曖昧を返してチュアンは、ひっくり返ったままの相手の傍らに寄って、腰を下ろした。
「……何してるの、こんな所で」
「…………一寸、眠れなくて。すいません、勝手に屋根に上がったりして」
「それは別に、構わないけど」
「マクドールさんこそ、こんな時間に何してるんですか?」
「……一緒。眠れないから、散歩でもしようかと思ってね」
「……そうですか」
「うん」
「お互い、不健康ですねー」
「そうだねえ、夜更かししてる訳だから。不健康だね」
「明日には……あ、もう、今日か。……今日には又、バナーの峠越えなきゃいけないから、寝なきゃな、って。そうは思うんですけど……」
「確かにね。…………今回は、どうするの? 僕も、一緒に行った方がいいの?」
「………………えーーーーと。えっと……。…………そう、ですね。折角、ですから。マクドールさんさえ、良ければ……」
「判った。じゃあ、一緒に行くよ」
そうして二人は暫く、他愛のないことを言い合い。
夜明け後も、こうして共に刻を過ごすことは、本意ではない、と思いながらも。
明日──否、今日も又、何時ものように、と、言い合った。
再び、連れ立ってデュナンへ? と問うたチュアンも、是非、と言ったファンも。
まさか相手も自身と同じく、暫しの間距離を置こうと考えているなどと、思いもしなかったから、これまでのように、『真っ直ぐ』相手を見られぬのを、チュアンはファンに、ファンはチュアンに、悟られまい、として。
結局彼等は、自分達が心より望まぬ道を、取ってしまった。
だから、全く同時に。
どうして、僕は、と。
己の中に彼等は、自身に対する疑問と罵りを浮かべ。
『予定』を決めてより長らくの間、身動ぎもせず、チュアンは前を、ファンは空を、じっと見詰めるのみだった。
──────マクドール邸の屋根の上で。
沈黙のみに支配されていた間。
彼等が考えていたことは、揃いも揃って、似たようなことだった。
……脳裏に翻させた親友のことを思って、せめて、暫くの間だけでも、と、決めたのに。
何故、成り行きはこうなってしまったのだろう。
何故、誘うような相手の言葉を振り切れなかったのだろう。
どうして、この人といると、この子といると、楽しくて、嬉しくて、と。
そう思ってしまうのだろう。
かつて、これに似た想いを分け与えてくれた人は、確かに己の中にいて、その人は今尚、己の『一番』である筈なのに。
………………真夜中、静寂のみのある、屋根の上で。
片方は前を見ながら。片方は空を見ながら。
そう考えていた。
「……流石に、一寸肌寒いですね」
「ああ、もう秋だからね」
「そう言えば、そうでしたね」
「うん。……何時までもここにいたら、風邪を引きそうなくらいは、もう寒い。……戻ろうか。数時間後には、峠越えもしなくちゃならないし」
だが、こうしてこのまま、何時までも黙りこくって、屋根の上で二人、朝を迎える訳にもいかないと。
そこを立ち去る切っ掛けを、二人は口にし始める。
「ついこの間まで、暑いなあって思ってたんですけど。デュナンよりは南のトランでも、もうこんなに風が冷たいんですよねえ……」
「早いものだね、季節の移り変わりなんて」
どちらからともなく立ち上がって。
気負いなく出来る、季節の話のみをして。
寒いね、とか何とか言い合い。
「じゃ、お休みなさい、マクドールさん」
ファンは、屋根へと上がった時のように、雨樋を伝って、あてがって貰っている客間へ戻ろうとした。
「えっ? ファン、君、何処から戻るつもり?」
だが、チュアンは、ファンがそうやって客間へ戻ろうとしていると、思ってもみなかったから。
ファンは、屋根から何処かへ飛び降りようとしているのではと咄嗟に疑って、思わず駆け寄り、雨樋へと伸ばされ掛けていた、腕を掴んだ。
「何処から……って、雨樋伝って、ですけど? ……ここ来た時も、そうやって……、って、あ、すいません、行儀の悪いことしちゃって」
突然腕を掴まれ、強く引かれ、驚きの表情で振り返ったファンは、きょとんと、首を傾げてチュアンを見上げ。
「雨樋、って……。行儀が悪いの何の、言うつもりはないけど、僕が家事室の屋根裏から出て来たの、判ってるんだから、階段伝って降りればいいのに。何を考えているんだか……」
その仕草、その科白に、チュアンは呆れ。
「……って、ファン。君、一体何時から屋根の上にいたの? 腕、凄く冷たいけど……」
呆れると同時に、掴んだままだった、ファンの二の腕の冷たさに気付き、そのまま、ファンの肌の上で己が手を滑らせ、辿り着いた指先を握り締めて。
そこが、腕よりも一層冷えてしまっていることに、更に呆れた。
「そんなに長く、いた訳じゃないと思いますけど……。えーーーと、確か、お風呂借りて、部屋戻って、一寸して、からだから…………」
すればファンは、言い訳がましく言い募り。
「あのね。湯冷め、って言葉、思い出せる? 本当に風邪引いても知らないよ?」
唯々、チュアンは声音に呆れのみを滲ませて、ファンの手を掴んだまま、歩き出した。
「只でさえ、君は薄着なのに」
「……すいません……」
「暖かくして寝なね。風邪引いて倒れても知らないよ?」
「はーーーい……」
そして、そのまま。
自らの体温を、ファンに分け与えるかのようにしながら、チュアンは、家事室へと続く階段を降りた。