一週間振りに、遠退こうと思っていた相手と、偶然とは言え顔を突き合わせて。
目抜き通りで立ち話をしていた時は、相手の目も見られず、交わす言葉も空々しかったけれど。
常通り、チュアンの生家に一晩世話になって、お茶を御馳走になったり、夕飯を御馳走になったり、くさくさする、と上がった屋根の上で、やはり偶然の結果、話をすることになって、そうしている内に。
ジョウイのことが頭の片隅から消えなくとも、今までのようにチュアンと言葉を交わせるようになった、と、ファンは安堵していた。
ぎこちない態度を取り続けること止められなくて、誰かに、チュアンと喧嘩でもしたのか、と気遣われても嫌だし、今回のことは己自身の問題で、チュアンに変に思われるのも嫌だったし、やっぱり、これまでのように、他愛無い話や少しばかり深刻な話をチュアンと交わせるのは、楽しいことだったから。
良かった、と。
表面上だけでもこれまでのように戻れたことを、ファンは素直に受け取ることにした。
ジョウイのことは、取り敢えず、脇に避ければいい。
彼は確かに、己にとって唯一無二と言える親友なのだし、それとチュアンとのことは、別問題、そう割り切ってしまえば、ここの処己が抱えていた悩みは、何をそんなに複雑に、と馬鹿馬鹿しくなってしまうくらい、呆気なく片付くことだった、ともファンには思えて。
大体、悩むのって、僕の性分じゃないんだよねー、と彼は、何時もよりも足取り軽く、国境の関を越え、険しいバナーの峠道を進んでいた。
ナナミが、それはそれは賑やかな質をしているように、共に育った所為か、ファンも又、義姉に負けず劣らずの賑やかな質をしているから、元気を取り戻した彼と、義弟が元気を取り戻したのに気付いたナナミは、延々喋り続けながら歩を進めており。
喋りまくる二人が、ああでもないの、こうでもないの話し掛けて来ることに、口数が少ない方ではないチュアンが混ざって、更には、賑やかで楽しいことが好きなシーナも加わったから。
歳の頃が近い彼等とは違って、どちらかと言えば寡黙を好むルックが、はあ……と重たい溜息を付く程、その道中は賑やかだった。
ファンがそうだったように、少年と似たり寄ったりの『気分』を抱えていたチュアンも、昨夜、屋根の上で過ごしたひと時が、これまでファンと二人で過ごして来たひと時と大差なく思えたことに、気分を晴れさせること叶ったのか。
昨日の、何処か気乗りしない風情は消し飛んでいて、義姉弟がきゃあきゃあ語ることに、一々、言葉と笑いを返していた。
「……本当、うるさい…………」
「何処が? そんなに僕達うるさい? 普通に喋ってるだけじゃないか」
「あんた達の普通は、僕にとっての、うるさい、なんだよ」
「そうかなあ……。ルックが、喋らなさ過ぎるんだよ。静かな方が好きなのは知ってるけど。何時も何時も、そんな風にムスっとした顔してたって、つまらないよ? 誰かと喋るのって、楽しいのに」
「……あんたね……」
「──ファン。ルックに、そんなこと言ってみたって、多分無駄。以前から、こいつはこういう質なんだよ。表情変えるの、好きじゃないみたいだしね、ルックは」
「…………あー、成程。そうですか。ルックは、仏頂面を拵えてる方が好きだ、と」
「そうそう。多分、そうなんだろう」
「…………いい加減にしなよね、あんた達……」
──余り、綺麗とは言えぬ色をした空の下。
ぶつぶつ言い始めたルックを、ファンは愉快そうにからかい始めて、からかわれたことに、あからさまに気分を害してみせた彼を、今度はチュアンがからかって、そうして、ファンも再び、と。
至極賑やかに、彼等は鬱蒼したバナーの森の中を、進んでいたが。
「……あ。雨………?」
どんよりとして重たい色の、さも、これから秋特有の雨を降らせる、と言わんばかりの空から、ポツっ……と冷たい雫が落ちて来たのに、ナナミが気付いた。
「え? ……ああ、ホントだ。雨みたいだね」
「どうするんだ? ファン。引き返すか? 酷くなられても困るしさ。今だったら、関所の方に引き返せないこともないぜ?」
宙へ、手を差し出した義姉の仕草に倣って、手のひらを差し出したファンの、茶色い手袋の上に、ポタリ一滴、雨は広がり。
立ち止まった二人へ、どうする? とシーナが振り返った。
「んー……。でも、酷くならないようなら、このままバナー村まで行っちゃった方が、手間省けていいかなあ、とも。……って、うわっっっ」
険しいことで有名な峠道を、未だ半分も越えていないから、関所へと戻るなら今だ、と告げるシーナに、言いたいことは判るけど、それはそれで面倒臭い、とファンは渋い顔をし。
が、途端、叩き付ける程に勢いを増した雨に彼は、悲鳴にも似た声を放って、取り敢えず、と大木の下へ逃げ込んだ。
「うわー……。急に来た……」
「山の天気は変わり易いからね」
「そうですね……って、悠長に言ってる場合でもないか。うーん、どうしましょうか。ここで雨宿りしてもいいですけど、この分じゃあ止みそうにもないですし。戻った方がいいですかね、関所まで」
ナナミやシーナは、ファンのような叫び声を放って、チュアンとルックは無言のまま、大きく枝を茂らせている、大樹の陰に入り。
「バナーの峠は足場が余り良くないから、関所に戻るのが無難と言えば無……──。……ああ、そうだ」
シーナの言う通り、関所へ戻った方がいいかもと、己を見上げながら言って来たファンへ、チュアンは同意を示し掛け、けれど途中で、ふと、何かを思い付いた顔をした。
「そうだ、って? 何ですか? マクドールさん」
「ここから、少しだけデュナン側に向った所に、ロッカクという名の里があるんだ。忍び達の隠れ里。そこなら、関所へ戻るよりも、遥かに近い」
「へえ。ロッカクの里、ですか。……でも、忍びの隠れ里、なんですよね。そんな所に雨宿りさせて下さいって言って、入れて貰えるかな……。僕、何度もこの峠往復してますけど、今まで、そんな里があるなんて、知らなかったし……」
思い出したことを口にしたチュアンへ、ファンは目を丸くしながらも。
不安そうな色を覗かせた。
「平気だよ。ファンはトランで、カスミって女性に、会ったことがある?」
「カスミさん、ですか? ……ああ、ありますよ。レパント大統領の所に同盟締結の申し出に行って、義勇軍派遣して貰えることになった時、お会いしましたよ。レパント大統領に、義勇軍指揮する将軍、バレリアさんかカスミさんか、選んでくれ、って言われて。その時に」
「その、カスミがね。ロッカクの里の生まれなんだ。解放戦争の時に、彼女は僕達の軍の一員だったし、里長も、知らない相手じゃないから。雨宿りくらい、させてくれる筈だ。……多分」
しかし、チュアンは大丈夫、と笑いながら言って。
「……多分、って。多分、なんですか?」
「まあまあ。何とかはなるよ。多分」
「…………じゃあ、一寸未だ不安ですけど、多分、でもいいです。ここにいるよりは、マシになるでしょうから」
不安は残るけれど、チュアンの思い付きに従うと決めたファンは、仲間達を促して、激しい雨が叩き付ける峠道を、ロッカクの里目指して走り始めた。
「どの辺ですかーーーーっ?」
「そこの角曲がった先に、大きな杉の木があるだろう? その裏に、山の下を流れてる沢へ続く道がある」
「……あああ、ありました、ありました、これですねっっ」
止む気配を見せる処か、益々降りを激しくして行く雨は、目を開いていることすら困難に感じられる程の勢いを増し始めて、走り続ける彼等は、ともすれば、雨音に掻き消されそうになる声を張り上げながら、峠道を逸れ、森の中へ分け入り、獣道としか思えぬ脇道を、急ぎ辿った。
「………………あれ? シーナ、ナナミは?」
「へ、ナナミ? いるだろ、後ろ…………って、あれ?」
「ファン? ナナミちゃんが、どうした?」
「それが…………」
「おかしいな、今まで直ぐ俺の直ぐ後ろ走ってたのに。ルック、知ってるか?」
「さあね……。僕も、自分の面倒見るので精一杯だったから」
──土砂降りの雨の中、もう直ぐ、ロッカクの里の入口が見えて来る筈、とチュアンが口を動かした時。
ふと、後ろを振り返ってファンは、義姉の姿がないことに気付いた。
故に、濡れ過ぎる程に濡れているのだ、今更、と、走り続けていた仲間達は足を止め、辺りを見回してみたが。
ナナミの姿は、何処にもなかった。
「おっかしいなー……。ナナミーーーーーっ? その辺に、いるーーーーーっっっ?」
勢いを増す一方の雨が濡らす顔を、濡れた手で幾度も幾度も拭って、来た道を見据えながら、ファンは叫んだけれど、ナナミの声は返らず、姿も見えず。
「雨で、僕達の姿を見失ったのかも。横道も、多いし……」
「かも知れませんね。困ったな……」
「捜した方が良い。この辺りには、崖もある。この雨だ、足を滑らせでもしたら、沢まで落ちる」
「沢…………。増水し始めてるだろうから……。うわ、ナナミっっ」
深刻な顔付きになって、義姉を捜し始めたファンへ、ファン以上に真剣な表情を作ってチュアンは言い、さあっとファンは、顔色を青褪めさせた。
「シーナ、ロッカクの里へ行ってくれ。レパントの息子だと、里の者に素性を語れば、お前なら多分、追い返されずに済む筈だ。ハンゾウの顔だって、憶えてるだろう? だから、行って事情を説明して、人手を借りて来てくれ」
「判った」
「ルックも。もし、どうしてもナナミが見つからないようであれば、デュナンの城まで『飛んで』貰うかも知れないし」
「……判ったよ」
うっかり者の義姉が道に迷って、万が一、足を滑らせでもしたら、と、蒼白になったファンを見遣り、シーナとルックに、手早く指示を出して。
「行こう、ファン。少し戻れば、彼女はいるかも知れない」
「……あ、そうですよねっっ」
チュアンはファンを促し。
促されたファンは、慌てて、チュアンと共に、元来た道を、走り始めた。