どう頑張った処で、もう踏ん張りようがない、多分どうしようもない、諦めて、落ちるだけだ、と。
崖の向こう側の宙に体が浮いた途端、そう悟ったファンは、無意識の内に体を丸めた。
上着の裾を掴んでいた為、ファンに引き摺られる格好で、やはり体を投げ出された時チュアンは、ファンが悟ったように、これはもう、落ちるしか道はない、と知り。
かろうじて地面に触れていた左足で、思い切りそこを蹴った。
すれば、落ち始めた体には勢いが付いて、切り立った崖と、増水し始めている真下の川とを見比べながらチュアンは、体を縮めたファンを引き寄せ、抱き抱えて。
ファンの体と、自らの頭を庇うような姿勢を取って、大人しく落ちた。
崖から水面までは、彼等が思っていた以上に距離があって、二人は盛大に沈んだが、酷い雨の所為で水嵩が増していたお陰で、普段は大して深くないそこの水底に、直接叩き付けられるのだけは免れ。
沢という言葉が相応しくない程、濁った水が溢れ返り、うねり狂うそこを、二人は、川の上流では良く見掛けられる大きな岩に当たらぬように、それだけを考えながら、漂った。
そうして暫く、水の流れにされるがままにしていたら、運良く、這い上がれそうな窪みを彼等は見付けることが出来て。
「泳げる?」
「何とか」
溺れ掛けの者が晒す姿、そのものを晒しつつ、何とか流れに逆らい、岩場へと手を掛け、這い上がり。
洞穴、と言うよりは、窪み、と例えるのが相応しいだろう、川辺の細やかな穴へ、逃げ込んだ。
今とは比べ物にならない程川の水が溢れ返った時に、岩か何かが削って行ったのかも知れない、と思しきそこは、大して大きくもなくて、誠少年らしい体躯をしているチュアンと、十五前後、というその年齢よりは幼く見えがちな小柄なファンの二人が並んで座り込むだけで、少々狭苦しくなる程だった。
だがまあ、それでも。
雨は凌げるし、川の水も凌げるし、ゆっくり、休むことは出来そうだったから。
気を紛らわす目的を兼ねた、他愛無い話を二人は始めた。
「ホント、すいません。マクドールさんまで、巻き込んじゃって…………」
「いいよ、そんなこと気にしなくて。こうなってしまった以上、言ってみたって仕方ない」
「……そうですね。────……ナナミ、どうしたかなあ……。見つかったのかな」
「案外、ナナミちゃんは無事に見つかって、今度は僕達が行方知れず、って、騒がれてる番かも」
「あはは、そうかも」
「…………笑い事じゃないって……」
限界まで水を含んだ重たい上着も、その下の衣装も、苦労しつつ脱いで、靴も放り出し。
下着まで水浸しだと、ぶつぶつ文句を言いながら、気楽なことを言い合いつつ、二人は身を丸めた。
「川に流されるの、これで二度目です」
「え、前にもこんなことを? ……懲りないね」
「懲りるとか、懲りないとか、そういう問題じゃなくてですね。……ほら、ハイランドで、僕が所属してたユニコーン少年部隊が、ルカ・ブライトに襲われちゃって、そこから逃げ出す時に、逃げ場なくなっちゃって、仕方なし、ジョウイと二人、滝壺に飛び込んだんですよ。その時に」
「……ジョウイ? ああ、親友君。ファンも、変な処、運が悪いね」
「ええ。で、その後、ビクトールさんとフリックさんの二人に拾い上げて貰って。それで僕、ジョウストン都市同盟と、関わり持つようになったんですよ」
「成程。噂には聞いてたけど。それで、か」
「はい。……ビクトールさんとフリックさんって、ああいう人達じゃないですか。助けて貰った後、凄く良くしてくれて。何と言うか。これ程良くして貰ったんだから、恩返しの一つでもしなきゃ、罰が当たるなー、と。そう思って、何だ彼んだしてる内に、傭兵砦攻められて、逃げて、ミューズ行って、そうしたら今度はミューズ攻められて、逃げて、で、今に至る訳です」
「ふうん……。川に流されたのと、恩返しが、始まりか」
頭より取り去った若草色のバンダナを、固く固く絞って、しないよりはした方がマシ、と、ファンの顔と己の顔と、ファンの髪と己の髪とを、適当に拭い、聞かされた話に、チュアンは僅か、意外そうな表情になった。
「あ、誤解されないように言っときますけど、別に、恩返しの延長で、こうしてる訳じゃないですよ」
わしゃわしゃと、顔を、髪を拭う、バンダナを握る手に、好き放題されながらも、されるままになって。
あー、子供扱い、と内心で感じていた時、視界の端を掠めたチュアンのその表情に向け、ファンは言った。
「ふーん」
「……ふーん、って、信じてませんね? 他に行く所がなかったから、っていうのもありますけど、最初の頃、ビクトールさん達の砦で働いてたのは確かに、恩返しの真似事のつもりでもありましたよ。でも僕は、恩返しの延長で、同盟軍の盟主なんて出来る程、お人好しじゃないですから」
「…………じゃあ、何で? ……このこと、尋ねたことはなかったけど。君はどうして、同盟軍の盟主になろうと思った?」
「そうですねえ……。一言で言えば、ルカ・ブライトのしたこと、しようとしてたこと、が許せなかったから、ですね。何で僕や皆が、何も彼も滅ぼしてやるーー! って感じのことしか考えないあの皇子の所為で、逃げ回ったり戦争に巻き込まれたりしなきゃなんないんだよっ! って。逃げ回るくらいなら、戦ってやらあ! って。そんな風に思ったのが、最初ですねー。……腹立つじゃないですか。延々逃げ回るの。何時までも、逃げてる訳にもいきませんし。逃げる場所が、ある訳でもないですし。それに…………」
「……それに?」
「……やっぱり、嫌だったんですよ。人が殺されるのも、人が死ぬのも。黙って殺されるのも、黙って誰かが殺されるのを見るのも。……嫌でした。だから、僕が同盟軍の盟主になれば、そんなことにも終わりが見えるって言うなら、そうしようかなー、と。自分が戦ってでも、戦争なんか終わらして、鬱陶しいことなんて片付けて、何考えてんだか知りませんけど、ハイランドの軍門に下って、今では皇王様にまでなっちゃったジョウイのこと、殴るなり何なりしなきゃ、とも思いましたしね」
「……勇ましい話で」
「そうですか? …………ミューズで、ジョウイと生き別れになって、これでもかっ! ってくらい心配したのに、再会した時にはあいつ、ハイランドの軍団長でしたからね。むかっ腹の一つも立とうってもんです。……なのに、ジョウイは皇王になって。これで戦争が終わりに出来ると思って、和平交渉に向ってみれば、無条件降伏しろ、ですもん。……無条件降伏ですよ、無条件降伏! 僕、ジョウイにそれ言われた時、喉元まで出掛かりましたよ、『ジョウイ、馬鹿?』って。挙げ句、戦うより他道はない、ですよ。ええ、もう、腹括りましたよ、徹底的に戦わなきゃ戦争止めないって、ジョウイやハイランドが言うんなら、そうしてやるよ、って。戦って、勝って、平和もぎ取って、そうなるまで戦わなきゃ平和なんて来ないとか何とか言い垂れたジョウイのこと、張り倒そうと」
「…………益々、勇ましいことだね」
子供扱いされている、そう感じられて仕方ない今に、何処となく、拗ねた風になったファンが、つらつら言い始めたことに、茶々を入れつつ耳を傾け。
チュアンは、薄く笑った。
「だから、そんなんじゃないですって。………………狂皇子──ルカ・ブライトは、もうこの世にいないんです。同盟軍の盟主をしているのは僕で、ハイランドの皇王をしているのはジョウイです。……例え、昔みたいに戻れなくとも。昔みたいに、仲良くすることが許されなかったとしても。ジョウイの言った通り、この戦争が、ルカ一人が死んでどうこうなるような、簡単なことじゃなかったとしても。戦わないで決着を付ける方法は、何処かにはあったかも知れないのに。ジョウイはその可能性を、捨てちゃったんです。……殴りたくもなります。僕の中では未だジョウイ、親友ですしね」
刹那、チュアンの頬に浮かんだ仄かな笑みの気配を、何と受け取ったのか。
ファンは少々語気を強めて、そう言い切り。
「子供の理屈でも、何でもいいです。戦争を終わらせて、平和にして、昔みたいに戻れれば、それで……。僕はそれで、いいんですって。…………あー、それにしても、寒いですねえ……」
一転、自分に言い聞かせるように、低く呟くと。
寒い、と零し、震える背中を丸めた。