若干赤く染めた頬を隠しながら、どうしたらいいか判らない風に、大慌てでベッドに飛び込んで行ったファンの背中を、朝の光の中で思い出しつつ。
どうして夕べ、己はあんなことをしてしまったのだろうと、チュアンは溜息を零していた。
──こんな時くらい、この少年を慰めたいと思っても、そして慰めてみても、罰は当たらないだろう、そう思った。
だが、彼を慰めるだけならば、言葉で充分事足りただろうし、それでも駄目だと言うのなら、それこそ、頭か肩の一つでも叩いて、少しばかりの背伸びをさせ、年頃の男同士、大人の目を掠め、酒でも飲んで、ひと時だけでも全てを紛らわせば良かったのに。
成し得たことは、彼を引き寄せ抱き締めて、そうしてしまってから、彼が見せた戸惑いを、適当に誤摩化すことだけで。
無様なこと、この上ない、と。
チュアンは、溜息を零して、軽い落ち込みを見せるより他、出来なかった。
バナーの峠で、あの出来事を経験してよりこっち、余りまともにファンの顔を見遣ることが出来なくて、もしかしたら自分は彼へ、邪な想いでも抱いているんじゃなかろうかと、うっすら『怯えて』いて。
「本気か……?」
と、自らに問うてはみても、そこに答えはなく。
自分で自分が良く判らない、こんなことは初めてだ、と。
チュアンは一人悶々と、その日の午前を過ごした。
けれど。
ジェスが、ネクロードの隠れ家を攻める、と、クラウスやリドリーが止めるのも聞かず出陣してしまって、同盟軍の者達も、その後を追うように出て行ったから。
己のみの、しかも、あやふや以外の何物でもない問題に、頭を使っている場合ではないと、チュアンは己を叱り飛ばし、ファンを捜したのだが。
「……あれ? ビクトール、ファンは?」
ティントの市門前からギルドホールへと、確かに共に戻って来た筈のファンの姿が見えなくて、彼は、グスタフと話し込んでいた傭兵を捕まえて、少年の行方を訊いた。
「ファン? あいつなら、一寸市内を見回って来るって、出てったぞ? 一緒に行くってくっ付いてった、ナナミと一緒に」
「そう。判った」
チュアンの問いに、ビクトールは事も無げに答え。
ファンとナナミが走って行った方角を指差したので、一人ていても暇だし、と彼は、二人の後を追うことにした。
──姉弟が辿っていったらしいのは、ギルドホールの前を、東に向って真っ直ぐ伸びている、鉱山へと続く道だった。
なので、チュアンも又、その道を辿りながら、そう言えば昨日の軍議の席で、ティントの坑道の奥は、何処に繋がっているか判らない、という話が出たから、そこの様子でも見に行ったのかも。
二人きりで、坑道の奥に潜るのは、余り安全じゃないのに、と考えて。
彼が、足を速めた頃。
──チュアンが、三十分程前に、ファンとナナミが辿った道を、足早に進んでいた頃。
彼と彼女は、坑道に潜った仲間達が戻って来ない、もしかしたら、落盤事故でも遭ったのかも、と鉱夫達に聞かされ、ならば僕達が様子を見て来ます、と。
丁度、事故が起こったかも知れないと目された、坑道に潜った処だった。
心配しきりの様子で、仕事仲間の身を案じる鉱夫達の様を、不憫だと感じ、二人はそう申し出て、相応の危険は覚悟し、坑道へと入ってみたのだが。
行けども行けども、坑道の中は只静まり返っているだけで、落盤事故が起こったような、形跡一つなかった。
「何にもないね。静かだし。……落盤事故が遭ったなんて、何かの間違いじゃないのかなあ。ねえ、ファンもそう思わない?」
「……うん。事故が遭ったとは、到底思えないけど……。でも、鉱夫の人達、帰って来ないって言ってたし…………」
「あ、そっか。じゃあ、もう少し奥まで行ってみる?」
「んーーー、それもなあ……。二人っきりで、あんまり奥まで行くのも危ないから、一回戻ろうよ、ナナミ」
その為二人は、ここは一旦引き返そうと、そう話し合って、踵を返したのに。
「……おや。こんな所でお目に掛かれるとは、思いもしませんでしたよ。同盟軍の、盟主殿」
二人の背を、一人の声が、追い掛け止めた。
「…………うわー、ネクロード……」
「うわ、とは失礼ですね。私との再会は、ご不満ですか? そんなに嫌そうな声を、出されずとも良いでしょうに」
「嫌そうな声の一つも、出したくなるね。僕はこんな所でナナミと二人、あんたと再会なんてしたくもなかったから」
引き止める声にファンが振り返れば、そこにいたのは、倒すべき相手、ネクロードで。
至極嫌そうに彼は顔を顰め、顰められた彼の顔と、不快そうなトーンを帯びた彼の声に、ネクロードは苦笑を浮かべた。
「貴方が、私との再会を望まれなかろうが、折角お会い出来たんです。逃しはしませんよ。……如何です? 盟主殿、これからここに私が造り上げる、死者の為の王国に、住まってみる気はありませんか?」
「……はあ? お・こ・と・わ・り。どうして僕が、あんたの作る国なんかに、住まなきゃならない? 冗談じゃないよ」
そして、浮かべた苦笑を消さず、ネクロードはそんな誘いを掛けて。
ファンは直ぐさま、小馬鹿にしたように、ネクロードの誘いを袖にして。
「私の誘いを、断る気ですか。……でも、逃さない、と言いましたよ、私は」
浮かべていた苦笑を、禍々しい嗤いへと塗り替え、四百年の刻を生きた吸血鬼は。
「我が月の紋章よ、百人の血と百人の命を捧げん。いざ至れ、『蒼き月の呪い』……──」
その掌中に、呪いの光を生み出した。
「……えっ、ファンっっ!!」
「ナナミ、逃げてっっっ!」
突然ネクロードの手より生まれた、目映い、けれど重たく呪わしい色の光に、ナナミは悲鳴を上げ、ファンは逃げろと義姉の体を押して。
ナナミを突き飛ばした間に、ファンは、急激に膨れ上がった呪いの光に飲み込まれ掛けた。
「…………っっ……! ………………あ、あれ……?」
だが、彼が息を飲むや否や、その右手から、ふわっと緑柱石色の淡い光が洩れ、それはネクロードが生んだ光を打ち払うかの如く、弾いてみせた。
「まさか、この呪いを弾いた……? そうか、輝く盾の……っ!」
予想だにしなかったのだろうその出来事に、ネクロードは悔し気に呻き。
「ナナミ、今の内にっっ」
その隙を突いて、ファンはナナミの手を引き、走り出した。
「おのれ、逃がすなっ!」
坑道の出口目指して、一目散に駆けて行く二人へ、口惜し気にネクロードは叫ぶ。
……と、その叫びに応えて、地中より、幾体ものゾンビが、土塊を跳ね上げながら出現し、彼等の後を追い始めた。
「ファン、早くっっ。あの、顔色の悪い変なのが、沢山追い掛けて来るっっ!」
がさがさと蠢き、ねちゃりとした足音を響かせ、追い縋るゾンビ達の気配に気付いて、来た道を振り返ったナナミが、悲鳴に似た声で、ファンを急かすも。
「……判ってる、んだけどっっ……」
ファンは、思うように足が動かぬのか、義姉へと焦りを返した。
己の意に反して、輝く盾の紋章が解放された所為だろう、走り続ける彼の息は、呆気なく上がり、足の進みは、一層鈍くなって。
坑道のあちこちに転がる大きな石に蹴躓き、彼はそのまま、倒れ込みそうになる。
「ファン、しっかりしてっっ。もう一寸で、出口だからっっ!!」
──崩れ落ちていきそうな、ファンの体をナナミは支え。
その所為で、二人は歩みを鈍らせてしまい。
「ナナミ、逃げて……っ。あいつらに、追い付かれるから……っっ!」
自分を置いて行け、と、ファンは、ナナミの腕を振り払ったが、時既に遅く。
「そんなこと言われたって……っっ!」
ナナミはファンを、ファンはナナミを、それぞれ庇うような姿勢を取って、追い付かれてしまったゾンビ達より受けるだろう攻撃より身構えた。
………………だが。
ファンの視界の端にて振り上げられた、どす黒い色をしたゾンビの爪先は、下ろされることなく。
代わりに、腐敗した体がへし折れる、鈍い音が辺りには響き。
「立てるかい? 二人共。立てるなら、立って。走れるなら、走って。早く!」
ゾンビ達が崩れて行く、鈍い音が途切れた途端、チュアンの声が湧いた。
「マクドールさん!」
「……マクドールさん……?」
咄嗟に瞑ってしまった瞳をそろそろとこじ開け、声の湧いた方を見遣れば、そこには、自分達とゾンビ達の間に、天牙棍を構えて立ちはだかるチュアンの姿が有り。
「でも、マクドールさん……は……?」
「僕も一緒に行くから。ほら、立ってっっ」
あからさまに、ほっとしたような顔になったナナミ、何故か、少しばかり泣きそうな顔をしているファン、双方をチュアンは急き立てて、ファンの二の腕を掴み、引き摺る風に走り出した。
そうしても、ファンの足は縺れがちで、息は上がり続け、坑道の入口を何とか潜った所で、チュアンの手をファンの体はすり抜け、その場に、膝を付いた。
「ファンっっ!」
がっくりと崩れた体が、全て大地に伏してしまう前に、チュアンが両腕を伸ばし、ファンを抱き抱えれば。
「マクドールさ……」
宙を彷徨う視線を、何とかチュアンへと向けて、己を抱き留めてくれたのが彼であるのを確かめ、ホッと、安堵したように薄く笑み。
チュアンの名を呼びながら、ファンはコトリと意識を手放してしまった。
「ファンっっ」
「……! マクドールさん、ゾンビが街の中にもっっ!」
静かに、眠るように。
瞼を閉じてしまったファンを、チュアンは高く呼んだが、彼の意識は戻らず、ナナミに、袖は引かれ。
「…………この街は、もう駄目かも知れない。クロムへ行こうっ」
しっかりと、その腕にファンを抱いたまま、生ける屍のみが彷徨う、ティントの街を脱出した。