戦乱に生きる10題 +Ver.A+
6. 一時の安らぎ
幻水2 ルカ・ブライト
思い出せない、思い出したくもない、『遥か大昔』は。
生まれ育った皇都が、辺り一面、草原に囲まれていた所為もあったのだろう、ルカ・ブライトは、なだらかで、穏やかな大地を渡る風が、殊の外好きだった。
──恐らくは、ハイランド王家の跡取りであり、皇王と皇妃の一粒種であり、男子、だったからだろう、彼の父と母である、アガレス・ブライトとサラは、人並みには彼を甘やかし、その年々の彼の体躯に合わせて、臣下達に見繕わせたポニーや子馬を与えたので、与えられたそれを駆って、少しばかり心配症な将軍達を引き連れて、遠乗りをし。
遠乗りで出掛けた、辺り一面の草原の直中、青臭い薫りを嗅ぐのを、少年だった頃のルカは、気に入っていた。
…………もう、そんな時代は何処からも消えて。
その頃をルカは思い出せもしないし、思い出したくもない、と、そう思っているけれど。
『遥か大昔』、確かに彼は、そんな薫りが好きだった。
────その日、ルカは。
『遥か大昔』、好きだから良くそうしていたように、愛馬を駆って、一人、草原を駆け。
駆け飽きた『そこ』、緑の直中で、佇んでいた。
少しばかり上がった息を整えながら、辺りを見回せば。
地には一面の緑、眼前は見えそうで見えない、ひたすらに渡り行く風。
空は、西が茜、天頂が菫、東が藍、と。
まるで精巧な織物のように、幾重もの色を重ねていた。
……そんな光景の中、見えそうで見えない、掴めそうで掴めない風はそれでも、彼の眼前を行き過ぎて、『青』に満たされた薫りを運び。
…………けれど彼は、もう。
『遥か大昔』には愛したそれを、感じることは出来なかった。
──最早彼は。
世界の薫りなど、嗅ぐことは出来ない。
ムッとするような血臭のみが、常に彼の体には纏わり付いていて、彼の一挙手一投足は、全て、その薫りを伴う。
だから彼はもう、『遥か大昔』、確かに好きだった筈の、『青』を嗅ぐことはなくて。
このような風景の中に佇んでいても、それを安らぎとも、慰めとも感じることはなかった。
…………慰めも、安らぎも、彼にはない。
何も彼もが、『あの日』、彼からは零れ落ちてしまった。
蛮族共が、母に手を触れたあの日。
蛮族にも、彼にも母にも、父が背を向けたあの日。
……全て。
────あの日、何も彼もが消えて、全てが零れ落ちて、慰めも、安らぎも、彼の傍らより去り。
好んで駆けた草原は、見たくもない色として映り始めたから。
かつての全てを崩した蛮族共を恨んで憎んで、崩された全てを取り戻さんばかりに、斬って、斬って、斬り刻んで、殺して、見たくもない野に積み上げて……と、そうしていたら何時しか、纏う薫りさえもが、憎しみの色、哀しみの色、怨嗟の色、それを具現化したような、血の匂いへと変わってしまった。
一挙手一投足からそれが薫り、辺りを満たし、寝ても醒めても、蛮族を滅ぼす刹那、そればかりを彼に思い起こさせ、見遣る何も彼もが、紅と、屍と、紅蓮の炎になってしまったから。
彼にはもう、あの頃の何一つ、嗅ぐことは叶わず、あの頃の何一つ、見遣ることも叶わず、だと言うのに、蛮族を斬り刻んでも斬り刻んでも、胸に燻る怨嗟は晴れず、恨みも消えず。
纏う血の薫りばかりが強くなり、眼前に積まれて行く屍ばかりが高くなり。
慰めもなく、安らぎもなく。
……そう、彼には最早、何もない。
欠片程の慰めも、一時の安らぎも。
『遥か大昔』、確かに好きだった、そして慰めであり安らぎだった、野を駆けて、その直中に佇んでも。
何一つ、戻って来もしなければ、受け取れもしない程に。
けれど、そうあっても尚。
地を覆う一面の緑。
見えそうで見えない、ひたすらに渡り行く風。
西に茜、天頂に菫、東に藍、と、織物のように、幾重もの色を重ねた空。
……それらを見遣って、包まれて、遠く遠く、振り返れば。
それでもルカの前には、生まれ育った、白亜の城があった。
滲むように霞み、揺らいで見える城。
そこからは、小さく小さく、ぽつん……、と在ると映る城が。
欠片程の慰めもなく。
一時の安らぎもなく。
それが、彼の今だと言うのに、血の薫りにも、屍にも、染まらず掻き消されず、その城は、尚在る。
何も彼もを無くしてしまった、空っぽの場所なのに。
そこのみが、永遠の安らぎであり、一時の安らぎであり。
還る場所である、そう言わんばかりに。
失くしてしまった筈の何も彼もが、本当は、そこにこそある、そう言わんばかりに。
永遠であり、一時である、安らぎすら閉じ込めて。
血の薫りにも、屍にも、『あの城』は染まらず。
何も彼もを失くした、彼の、たった一つの。
End
後書きに代えて
…………このお題を、ルカ様で、というのは、無謀だったろうか。
でも、ルカ様で書いてみたかったんだもん。
このお題お借りして来た時から、これはアンネリーで書こうと思ってたけど、ルカ様で書きたくなったんだもん。
──それでは皆様、宜しければご感想など、お待ちしております。