戦乱に生きる10題 +Ver.B+

3. 決して戻れぬ道

幻水1 マッシュ・シルバーバーグ

彼、マッシュ・シルバーバーグはその日。

目の前に突然、その少年が現れた日。

歩むことを止め、その路傍にしゃがみ込み続けていた道に、自ら戻ることを決めた。

生まれ育った家が、代々、軍師を輩出して来たから、という訳ではないが。

知の杖を持つのは尊いことだと、幼い頃から彼は、そう思い続けて来た。

それを携えるのは、何にも勝る力だ、と。

知は、武にすら打ち勝てる、と。

それを彼は、疑いもしなかった。

──それは多分、その頃の彼が未だ、若かったからなのだろう。

若いということは、そういうことだから。

尤も、彼の『それ』は、そう間違った考えではなく、知の何も彼もが尊く、何も彼もに打ち勝てる訳ではないけれど、そのようである場合が多いのは確かで、だから彼は、己が家系や、己の中に流れる一族の血や、代々踏襲して来た己達の生き方に、とても誇りを持っていた。

………………もしかしたら。

その頃の彼は、とても純粋だったのかも知れない。

時に、若くあることよりも尚『厄介』な、純粋さのみを持ち合わせていたのかも知れない。

その頃の彼の『真実』が、本当はどうであったのか、今となってはもう、誰にも判らないけれど。

少なくともその頃の彼にとって、知は、尊く、武にも勝るもので。

世の数多がそうであるように、尊く、武にも勝る知ですら、表もあれば裏もある、そんな簡単な理を彼は見落としていた、それだけは確かなのだろう。

幼い頃から、彼が、持ち得たいと願い、実際に持つこと叶えた『知の杖』は。

武に生きる者達が携える得物とは違い、一切の、重みを持たない。

知恵だけは、どれ程膨大な量を掻き集めても、決して重荷にはならない。

だが、例えば命、例えば言葉、そんな、秤に掛けて手に取れる重さを確かめること出来ない沢山の物にも、『重み』があるように。

決して重荷にはならぬ筈の知の杖にも、重みはある。

世界中の、ありとあらゆるモノに、『重み』が存在する如く。

知の杖とて、それを振るえば重みを生む。

────そんなことに、彼が気付いたのは。

彼の先祖達がそうして来たように、祖国の為の軍師となって、長年戦いを続けている、北の隣国・ジョウストン都市同盟と繰り広げた、とある戦いの折だった。

それまで、軍師としての彼が、討ち滅ぼすべく知の杖を振り翳した相手は、人ではあったけれど敵国の者達でしかなかったから。

祖国に徒なす者達だったから。

どれ程杖を振るおうが、彼は別段それを、重荷と感じたことはなかったけれど。

討ち滅ぼすべき敵国の者達との戦いに勝利する為、祖国の同胞達に向け、知の杖を振るわなくてはならなくなった時、彼は初めて。

尊く、武にも勝ると信じていた知も、使い様によっては、どうしようもない悪しき重さを生み出すのだと気付いた。

それ故、彼は。

持ちたいと願って、そして掴んだ知の杖を、自ら手放し。

人が、ひっそりと生きていくのに必要なだけの知恵、それだけと共に、生きていこうと決めた。

なのに、年月が過ぎて。

日々は、穏やかに過ぎていたのに。

ある日突然目の前に、一人の少年がやって来て、少年は、言葉ではなく眼差しで、彼に、再び知の杖を取れと言った。

年月の向こう側に彼が捨てた、知の杖を振るって挑む、戦いの世界に戻れ、と。

それが、戦いの世界に身を投じて命を落とした、彼の妹の遺志でもあると。

…………例えそれが、戦いに身を投じた、『愚か』な亡き妹の志の名残りであろうと。

この国の何かを憂いて、戦おうと思う者達の志であろうと。

捨て去った場所へ戻ろうなどと、彼には思えなかった。

武は固より、知でさえも、振るえば時に、悪しき重みを生むと言うなら。

若かりし頃、何よりも尊いと思えた知の杖さえ、人を傷付けて止まぬ代物へと成り下がると言うなら。

もう二度と、そのような物を持とうとは、彼には。

……武も、知も、この世界の何も彼も、どうしたって、『重み』を生むなら。

何もせず、瞼を閉ざしていた方が、遥かにマシだと彼には思えた。

そうした処で、世界が消え去る訳ではないが。

何かを振るい、重荷を生み続けるよりは、きっと、と。

──けれど、突然現れた少年の、その漆黒の瞳は、「そうではない」、そう告げていた。

重みを感じ続けても、重荷を背負い続けても、その上で尚、手にしたモノを振るい続けること、それが、一度はモノを掴んだ者の、辿るべき道だと。

知の杖も、武の為の得物も、掴んだ瞬間から、それを掴んでしまった者は、決して戻れぬ道を辿るしか、方法はないのだと。

引き返す道など、最早、何処にもないのだ、と。

だから、彼、マッシュ・シルバーバーグはその日。

穏やかに時が過ぎる、穏やかな村で暮らしていた彼の目の前に、突然、漆黒色の瞳を持ったその少年が現れた日。

歩むことを止め、その路傍にしゃがみ込み続けていた、決して戻れぬ道を、最後まで辿り切ろうと、自ら決めた。

End

後書きに代えて

……どうにも、暗いと言うか、救いがないと言うか。

相変わらず、私のお題の受け止め方は捻くれていると言うか、何でこのお題でマッシュ先生セレクトしたのか、と言うか。

──それでは皆様、宜しければご感想など、お待ちしております。