建て付けの悪い障子の隙間から射し込んでいた月明かりが、部屋より消えた頃。
躰の何処にも力が入らぬ風に京梧に凭れていた龍斗が、やっと半身を起こした。
「ひーちゃん? 大丈夫か?」
「……ああ」
「どっか、痛むか?」
「在らぬ所が、その……、それなりに」
「あー……。平気か?」
「平気だ。痛みや怪我など『力』でどうとでもなる。流石に気怠いのはどうしようもないから、眩暈に似た心地はするけれど、それだけだから」
起き上がるだけで蹌踉めいた躰を支えてやり、今更過ぎる気遣いを京梧は口にしたが、龍斗は、大丈夫だ、と笑んでみせた。
「なら、風呂でも行くか? 丑三つ時も過ぎてるだろうが、風呂立てるくらいなら何とかなるだろ」
「出来ればそうしたいが……、私一人では行けそうにもない」
「連れてってやるって。それくらいは甘えとけ」
「……そうだな。なら、そうする。処で京梧」
「んー?」
「あの……、次からは、私は先に風呂に入りたい……」
「………………ほう。いい心掛けじゃねぇか、ひーちゃん」
「何が?」
「次のことを、自分から言い出す辺りが」
「……? もしかして、そういうことは、自ら口にすることではないのか? はしたなかっただろうか……」
「お前な…………」
ゆるりとした調子で言い合っていた最中、何を思い出したのやら、次からは……、と言い出した際には何処となく頬を染めたのに、それを京梧にからかわれてもピンとは来なかったらしい、二人、こうなった今でも、果てしなく何かがずれている龍斗に、艶事の後に漂う色気も吹き飛んだ、と京梧は一旦項垂れたが。
「京梧? どうした?」
「何でもない。……ほら。風呂、行くんだろう?」
あれもこれもと、一度に望むのはきっと間違ってるんだろう、その内少しずつ教え込めばいいのだし、教え込む楽しみもあると言うものだ、と込み上げてきた笑いを噛み殺した彼は、又、一人笑いを始めたと、顔を覗き込んでくる龍斗を支えながら、ナニモノの気配も絶えた廊下を風呂へと向かった。
それより、二、三日。
あの夜、身を以て『事』を知り、それに関する仔細も粗方は教えて貰ったものの、相変わらず頓珍漢なことを言い出す龍斗と、色事絡みの経験は人並み以上に積んでいる京梧の間に、幾度かの『言い争い』が起こった。
それは、例えば、京梧の言うことなら一から十まで疑いもせずに信じ込む処のある龍斗が、想いを通じ合わせた者同士、望みを等しくするのが当然ならば、あの夜に自分が与えて貰ったものを、今度は自分が京梧に与え返す番だ、などと言い出した為、京梧が、
「そうじゃないっ。そういうことじゃないっ。俺はそれは望まないっ!」
と言い張って、それを聞き咎めた龍斗が、
「何がどう違っていて、何をどう望まないと言うのだ。お前は私を騙したのか?」
と詰め寄った果てに……、とか。
例えば、やはり龍斗が、ふと、「そう言えば、どうして京梧は、男同士の仕方を知っていたのだろう?」と気付いてしまった為に起こった、
「男と嗜んだことがあるのか?」
「絶対にないっ!」
「なら、どうして、お前はあんなことまで知っている?」
「話に聞いただけだっ。何で、訳の判らねぇことばっかり言うくせに、一人前に悋気しやがるんだ、お前はっ!」
とのやり取りの果てに……、とか。
そう言った感じで起こった、どれもこれも、言葉にするのも馬鹿馬鹿しいそれだった。
が、身と心を交わし合って程無い二人の、言い争いとも言えぬ言い争いは、太平楽の一言で片付けられる他愛無いもので、京梧も龍斗も、内心では、太平楽なそれを楽しんでいる風でもあったのだけれども…………────。
更にそれより数日後、到底、太平楽、などとは言っていられない『言い合い』と『諍い』が、再び、龍閃組と鬼道衆の間で始まった。
鬼哭村で『あの騒ぎ』が起こった翌日の、龍斗が龍泉寺に戻った日より数えて七日程が経った頃。
龍斗が、今度は、村に戻る、と言い出した。
龍泉寺と鬼哭村を行き来する、と言うのは龍斗自身が決めたことで、京梧達も九角達も、渋々ながらそれを認めたのだから、誰にもそれを止める謂れはないが、未だに、この先は共に戦う仲間と認め難い鬼道衆達の村に、やっと己が物にしたばかりの龍斗を、一人で、しかも数日に亘って行かせるのを京梧は承服し兼ね、ああだこうだと言い訳を並べ立てて、鬼哭村へ同道すると、『無理』を通し出した。
けれども龍斗は、『あの騒ぎ』の際に京梧達が立てたその場限りの誓いを信じていたし、何より、出来れば京梧とは共にいたい、との細やかな我が儘を抱いていたので、取り立てて何も言わずに『無理』を認めてしまい、京梧を伴って鬼哭村に向かった。
しかし、京梧達同様、未だに、この先は共に戦う仲間と認め難い龍閃組の一人──言わば、激しく余計な邪魔者が引っ付いて来たのを、龍斗の戻りを待ち侘びていた九角達が面白く思う訳もなく、龍斗の手前、先日の夜程ではないが、小競り合いや言い争いが一寸したことを切っ掛けにして幾度となく起こった。
双方共に、譲る所は譲らなければならぬと解ってはいたけれども、京梧は口は悪いし気は強い、と言う性分だし、九角達も、大人しく引くような質ではないから、早々、素直になれる筈も無く。
又、誰にどんな嫌味を言われても、龍斗が戻らない限り己も戻らない、と頑として言い張り村に居座った京梧の態度が、九角達の側の火に油を注いで、龍斗と引き離し、あからさまに寺へ追い返そうとしてくる九角達の態度が、京梧の側の火に油を注いで、更には、龍斗がいるからと、藍や小鈴達も頻繁に村に顔を出すようになったので、藍を除いた龍閃組の面々と、九角達鬼道衆の諍いは、段々と収拾が付かなくなっていった。
但、流石にその頃には、龍斗にも、『あの騒ぎ』の時に仲間達が立てた誓いは、その場限りのものだった、と悟れていたようで。
暦が文月に入って、四、五日が経った頃。
その日も始まった、どうしようもない言い争いに暫し耳を貸してから、徐に龍斗は、一日か二日、留守にする、と口喧嘩真っ最中の彼等へ言い残し、一人、さっさと村を出てしまった。
止める間もなく龍斗が消えてしまって仲間達は戸惑ったが、懲りることなく、彼等は、そっちが悪いだの悪くないだのと揉め続け、二度と自分達の前に姿見せるな、と言い合いながら、京梧達は龍泉寺へ戻り、九角達は村の入り口に盛大に塩を撒いたが。
────翌日。
京梧達も、九角達も、揃って、円空和尚に江戸城へと呼び出された。