その日。
数日、鬼哭村の方に行っていた龍斗が戻って来たからと、藍や小鈴達と言った女衆は、市中見回りがてらお団子でも食べに行こう! と、阻もうと口を挟んだ京梧を撃退し、龍斗当人には有無も言わせず、彼を連れ、朝から出掛けてしまった。
流石に、鬼哭村に行く龍斗に番度付いて行く訳にもいかぬからと、今回は村まで送るだけで堪え、龍泉寺で恋仲の彼の帰りを待ち侘びていた京梧は、束になって掛かられると決して口では勝てない女達に龍斗を取られてしまったと、ふて寝を決め込もうとしたが、ふと考えを改め、彼女達の勢いに気圧されたまま、ぼうっと寺の本堂の片隅に立っていた雄慶に、「ちょっくら、鬼哭村まで行って来る」とだけ言い残し、寺を出た。
その言伝は嘘でも言い訳でもなく、内藤新宿の大木戸を抜けた彼は、僅か甲州街道を下ると裏街道に折れ、更には在所の者達も踏み入らぬ山道に分け入って、京梧達の顔も見慣れてきたらしい村の男達が守る門を抜け、真っ直ぐ、九角の屋敷に向かった。
「よう。大将」
「ん? 何だ、お前か。何の用だ、龍なら、そちらに行った筈だが」
玄関ではなく庭先に廻って、縁側越しに座敷を覗けば、中には九角と九恫の二人がおり、京梧は躊躇いなく九角に声を掛ける。
「そうじゃない。今日は、お前さんに用があって足運んだんだ」
「………………お前が? 俺に?」
「ああ。俺が、あんたに」
「どう言う風の吹き回しだ?」
「ちょいとな、この間っから考えてたことがあってよ。それで。……いいから、一寸ツラ貸せ」
「……若」
「大丈夫だ、尚雲。──付き合ってやるくらい吝かではない」
龍斗がいる訳でもないのに、わざわざ、鬼哭村まで一人きりでやって来たばかりか、九角天戒に用がある、と京梧に言われ、九角は戸惑いを隠せなかった。
己が、京梧達のことを未だに良く思えぬのと同じように、京梧も、己達のことを未だに良く思っていない筈なのに、どうして? と考えずにいられなくて。
が、九角は、気遣わし気になった九恫を制して、彼の不躾な誘いに乗ってみることにした。
鬼道衆と龍閃組双方が共闘の流れに乗った今、幾ら短気な京梧とて、いきなり喧嘩を吹っ掛けたりはしなかろうし、それなりの思惑があるのだろうから、と。
「物分かりがいいな。ま、助かるが」
すんなりと誘いに応じはしたものの、何処なく疑わしそうな目付きを送って寄越しながら、己の突っ立つ庭先に下りて来た九角に、京梧は唇の端だけを持ち上げる笑いを見せて、行こうぜ、と村の中を行き出した。
「何処へ行く気だ?」
「それは、あんたに教えて貰いたい」
「は?」
勝手知ったる我が家の庭のように村を歩く京梧に従ってみたはいいが、もう暫くだけ行けば裏山へ続く道が顔を覗かせる、人気少ない辺りに辿り着いてしまい、流石に「まさかこの馬鹿は、本気で喧嘩か何かを売るつもりか?」と不安になって、続いていた沈黙を破れば、漸く足を止め振り返った彼に、行く先を教えろ、などと不可思議なことを言われ、又、九角は戸惑う。
「ひーちゃんから聞いたんだが、ここにも、異形が出る洞穴だか何だかがあるんだろう?」
「……ああ、鬼岩窟のことか?」
「そうそう。そいつ」
「そこに連れて行けと? ……何故?」
「…………なあ、『鬼』の頭領。お前さん、この間の江戸城での一件、どう思ってる?」
けれど京梧は彼の戸惑いを無視して、この村の片隅にある鬼岩窟のことと、先日の話を持ち出した。
「どう……、と言われても。俺達は龍に負けたのだから、円空殿の申し渡し通り、この先は、鬼道衆と龍閃組の別なく、龍に──」
「──そういうこと言ってんじゃねぇんだよ、俺は。今更、あの時の決め事に兎や角言うつもりなんざ俺にだってない。だから、そのことじゃなくてよ。…………お前さん、悔しかねぇか? 俺達七人で束になって挑んだってのに、ひーちゃんにあっさり勝たれちまって」
「それは……、まあ、な。龍が、俺達の誰よりも強いことは認めるし、あの立ち合いに負けたのを納得していない訳ではないが、悔しいか、と問われれば、悔しい、と答えるしかない」
「俺もだ。ひーちゃんが、べらぼうに強いってことは、俺だって認めてる。あの時『も』、ちょいと人が変わったようになってたが、そいつを差し引いても、あいつは強い。でも、本音を言っちまえば、悔しいと思ってる。況してや、一対一の立ち合いでじゃなく、七対一で負けたんだ、悔しくない訳がねぇ」
「…………だから?」
「……だからよ。意趣返し、してみねぇか?」
「意趣返し? 龍に?」
「ああ。相手がひーちゃんだろうと、俺は、負けっ放しでいるつもりはない。やられた分くらいはやり返したい。……そいつに、お前さんも一口乗らねぇか? って話をしてる。…………どうだ?」
「成程な……。だが、どうして、俺と貴様とで、なのだ」
京梧が木立の影に身を隠すように寄ったから、九角も何となしそれに倣って、図った訳ではないが、こそこそと人目を憚る風に二人は立ち話を続け、
「んなこたぁ決まってる。手前味噌だと言われちまえばそれまでだが、うちの側で一番あいつとやり合えるのは俺だって、少なくとも俺は思ってるし。そちらさんの側で一番あいつとやり合えるのは、お前さんだろうと踏んだからだ」
話は見えてきたが、何故、自分に声を掛けた? と問う九角に、京梧はにやりと笑った。
「一人で意趣返しをしようとは思わないのか?」
「考えなかった訳じゃないが。抜け駆けってのも悪いと思ってな。でも、もう一遍七人揃って、なんて考えてやる程、俺はお人好しじゃないんでね。俺以外で一番見込みのありそうなあんたなら、誘っても足手纏いにゃならねぇだろうしな」
「随分な言い種だな。足手纏いになるやもは、貴様の方だろうに。……だが、いいだろう。乗ってやる。俺と貴様とで鬼岩窟で修練を積んでから、龍に立ち合いを吹っ掛けようと言う腹積もりなのだろう? …………付いて来い。こっちだ」
京梧が浮かべる笑みも、その物言いも、どうにも喧嘩を売られているような心地になるものだったが、龍斗への意趣返しの話に一口乗るのは悪くない、と。
それまでは億劫そうだった足取りを、いそいそとしたものに変え、今度は先に立って歩き出した九角は、京梧を連れ鬼岩窟に向かって、入り口を潜った。
「…………こりゃ又、随分と乙な所だな」
狭いそこを抜け、岩壁に囲まれた、やはり狭い真っ暗な道を少々進めば、途端、開けた場所に出て、辺りを見回した京梧は、へぇ、と感心した風に呟く。
一面、薄らと緑掛かっているように見える、思いの外広かった尖った岩ばかりに覆われた洞窟の中は、酷く不気味な雰囲気を漂わせていた。
足場も悪く、天井を象る鍾乳石から滴る水が所々に溜まりを作っていて、その水溜まりに時折落ちる雫の音も気味悪く、
「怖じ気づいたのか?」
趣味の良くない場所だ、と言わんばかりの顔付きになった京梧を肩越しに振り返り、九角は、ふ……、と鼻で笑った。
「馬鹿言ってんじゃねぇぞ? 誰がこれしきのことで。あのボロ寺にも、これとよく似た場所があるからな。あっちにもこっちにも、こんな所があるとはなって、ちいっと呆れただけだ」
「……だといいがな」
「…………てめぇ、喧嘩売ってんのか?」
「どうしても、貴様が俺に喧嘩を売りたいと言うなら、買うが」
「今直ぐ、お前さんと話を付けても構わねぇが、それは後回しだ。ひーちゃんから、取られた一本取り返す方が先だからな」
「確かに」
どうしても、かちん、と来る互いの態度の所為で、鬼岩窟に足踏み入れて直ぐさま二人は喧嘩腰になったが、龍斗への意趣返しの方が先だからと、互いわざとらしい愛想笑いを浮かべつつ、嫌味ばかりをぶつけ合いながら、彼等は、洞窟の奥へと下りて行った。