水面を漂う海月のように、ゆらゆら揺れる身を、腕を、うっそりと伸ばしてくる死霊達を軽く振った切っ先のみで退け、広間のようなそこの最奥辺りに佇み続ける若侍の霊の許へと駆け寄り様。
「阿修羅よ、全てを滅せよ! ──鬼剣・阿修羅っ」
「……桜よっ! ──月下桜っ」
二人は同時に得物を振るい、奥義の一つを放った。
与えられた名そのもののような、鬼神が操るに相応しい鋭さと激しさを迸らせつつ、六つの腕持つ阿修羅神が、宙に一度にその腕を振るった如くに見える残像を残す程の疾さで繰り出される九角の有する技と。
一陣の風に巻かれ散った桜花と、風に流れる桜花を照らし出す朧月の幻がそこに在るような気にさせられる程にゆるりとした、けれど、薙がれる切っ先は決して只人の目には映らぬ、神夷京士浪より京梧が受け継いだ技とが。
直後、若侍の霊を襲い────……しかし、死霊は消えなかった。
透ける身を、崩すことすらなかった。
「……何でだ?」
「…………余程、この世に遺した恨み辛みが深いのだろう。そうとしか思えん。だとすると、それを晴らさぬ限り、こいつは消えない」
「だからって、のんびり、こいつの身の上に耳貸してやって、代わりに恨みを晴らしてやる、なんてな、坊主の真似事してる暇はねぇぞ。こっちの奥義も弾き返すくらい恨みが深いなら、ぼんやりしてたら俺達が呪い殺される」
「貴様に言われずとも判っているっ!」
「だったら、ちったあ知恵絞れっ。こういうのの相手は得意だろうがっ!」
「俺の術は鬼道だ、死霊を説き伏せる経文ではないっっ」
「……ったく、使えねぇな」
「……刀を振るう以外能の無い貴様に言われたくないぞ」
これを喰らわせれば跡形もなく消え去るだろう、と踏んだのに、若侍の霊は彼等の渾身の奥義を受け付けず、つい、揃って目をぱちくりとさせた二人は、どうしてこうなる? との素朴な疑問のぶつけ合いを始め、勢い、口喧嘩にまで傾れ込んだが。
「てめぇな……。──っと、言い争ってる場合でもねぇな。……おい」
「何だ」
「力尽くってな、この手合いにも効くか?」
「効かぬことはないだろう」
「なら、押し切るぞ」
「そうだな。後ろの連中も迫って来ている」
それこそ、悠長に言い争っている暇は無い、と肩を並べる風に若侍の霊と向き合った彼等は、再び、得物を構え直す。
『────……わ、に……』
だが、鍔を鳴らす彼等のそれより奥義が放たれる前に。
それまで、現れた所より一歩も動かず、ひたすら俯いていた若侍の霊が、ゆらゆらと全身をぐらつかせつつ顔を上げて、くり抜かれたようにぽっかりと黒い穴を開ける両の目を二人へと向け、何やら呟いた。
『……とくが、わ、に……』
「徳川?」
『…………徳川、に、恨、みを持つ、私に何、故、刀を向、ける……』
「何…………?」
一言目は、何を言っているかも判らなかった呟きは、少しずつ大きさを増し、やがて、とても聞き取り辛くはあるが、言いたいことが判る程度にはなって。ああ? と京梧は眉を顰め、何を……? と九角は動きを止めた。
『怨、敵……。徳川は、怨敵……。なの、に、何故…………?』
この霊は、一体……、と二人が動きを止めた間も、死霊は呟きを続け、それは徐々に明瞭になっていく。
『お前は、同じ徳川に恨み持つ者。徳川は、我等が怨敵。なのに何故、私に刃を向ける。何故、怨敵を滅ぼさぬ?』
「…………俺は」
「……おい」
死霊の声が明瞭となるに連れ、九角は少しずつ困惑の色を面に浮かべ、それを見て取った京梧は、低く彼を呼んだ。
『何故だ!? 何故、徳川を滅ぼさぬ!? 憎くはないのか? 恨みを忘れたか? 我等が怨敵は徳川ぞ!?』
「だから、俺はっ!」
「…………おいっっ! んな野郎の言うことなんざ大人しく聞いてんじゃねぇ、馬鹿野郎っ!」
だが、九角が応えたのは、叫びとなり、そして辺りに谺し始めた死霊の声で、このままでは拙いと、京梧は怒鳴った。
『何を躊躇うことがある? 憎っくき怨敵・徳川を、徳川の世を滅ぼすことに、躊躇いなど要らぬ。徳川の世に生きる者など、民百姓に至るまで、地獄に堕ちるが相応しい』
「俺は、そのようなことは望まんっ」
『………………これは異なことを。それこそが、「鬼」の望む処であろうに。お前はこれまで、そうして来たのであろうに』
「それは…………」
けれども、耳許での京梧の怒声も九角には届かず、死霊の声のみに耳傾けている風に、そして、その声に多くを言い返せぬ風に、彼は声を詰まらせ、
「……天戒っ!!」
何を思ったのか、京梧は九角の胸倉掴み上げて、一際高く名を呼ぶと、拳を振るった。
「──っっ。……貴様、何をするかっ!」
「あんな気色悪りぃ奴の戯れ言に耳貸してるてめぇの所為だろ、どうせ耳貸すなら女の睦言にしときやがれ、色気のねぇ野郎だなっ!」
「こんな時に、そのような例えを持ち出すな、この不心得者っ!」
一発喰らい、我に返りはしたが、殴られたことも、その言い種も気に入らないと、九角は京梧の胸倉を掴み返す。
「はんっ、やっとこっちの話が聞こえるようになったじゃねぇか。……だったら、とっとと構え直しやがれ、唐変木っ!」
「この……っっ」
その腕を乱暴に払い除け、ふん、と鼻先で九角を笑い、京梧は刀の柄を握り直して、怒りで眦吊り上げつつも、九角も又、改めて得物を構え、
「合わせろ!」
「そっちこそ、きっちり合わせろってんだ!」
怒鳴り合ったまま、二人は同時に切っ先を翻した。
再びの鬼剣・阿修羅と月下桜は、ぴたり、息を合わせたように翻った二つの切っ先より同時に放たれ、ひたひたと背後より彼等に近付きつつあった死霊達の幾体かを巻き込みながら、若侍の霊を襲って。
先程は、その二つの奥義を弾き返してみせた霊の、透ける体を砕いた。
『怨敵……。怨、敵……。オンテ、キ。オン…………────』
若侍の形を取っていた、鬼火のような煙のようなそれは掻き消え、代わりに、その場には、灰色した溶け掛けの蝋を寄せ集めた如くな、目鼻口があるのか否かすら判らない、異様な姿の、ぐにゃぐにゃとうねるモノが現れた。
「あの若けぇのの正体が、あれかよ……」
「あんなモノの誑かしに、僅かでも耳貸してしまった自分が腹立たしい」
べちゃべちゃと耳障りに響く濡れた音まで立ててうねるモノを見遣り、二人は、うんざりと天井を見上げ、ぶすっとした声で呻くと。
「今度こそ消すぞ」
「当然だ」
互いに意図して間を合わせ、京梧は右に、九角は左に、それぞれ下段に構えた刃を振り上げ、そして振り切り。