屋敷の廊下の片隅で、桔梗と九恫が何を語らったかを知らぬ九角と京梧は、酒の支度の乗った膳を運んで来るや否や、さっさと腰を上げて何処かに行ってしまった桔梗を訝しんだが、まあ、いいか、と深くは考えず、それぞれ杯を摘まみ上げた。
差しつ差されつ、などと言うつもりは彼等には毛頭なく、互い手酌で好き勝手に酒精を煽り始める。
ああ、だの、うん、だのと言った程度の細やかな言葉すら交わされず、唯、淡々と呑み進め、四半刻が経った頃。
「……美味い酒だな」
杯を傾けつつ、ぽつっと京梧が呟いた。
「そうだな」
独り言のようなそれに、九角もぽつりと返した。
「何時も、こんないい酒呑んでんのか?」
「…………先代が、随分と懇意にしていたらしい酒屋があって、そこの隠居が未だに、折に触れ、内密に都合してくれるのだ。それで、時折はこれを楽しめる」
「成程……。随分、義理に篤い隠居だ。……平気なのか?」
「今の処は。……何年か前に、偶然、往来で行き会った。俺は最初は誰だか判らなかったが、向こうは一目で判ったらしい。半ば無理矢理話に付き合わされて、先代には色々と世話になったから、九角の家の為に力になれることがあるなら何でも言って欲しい、とも言われたが、そういう訳にもいかぬから、断りを入れたんだが。なら、せめて酒ぐらいは、と押し切られた。……何も気にしなくていい、こちらは商売で客に酒を売っているだけだ、と言い張ってな」
「……で、無下にも出来なくなった、と」
「…………ああ」
互い、手酌のまま淡々と呑み進めるのは変わらなかったが、沈黙だけは何処かに消え、ぽつりぽつりとしたやり取りは続き、
「……天戒」
一息に空けた杯に、又、自ら酒を注ぎながら、目は合わせず京梧は九角を呼ぶ。
「……………………何だ」
「俺は、徳川幕府なんてモンへの興味は、更々ない。今の世が変わらないなら変わらないで、別に、と思うだけだし、変わったら変わったで、仕方無い、と思うだけだ。上の連中が何をどう考えてようと、どうでもいい。んなこた、知ったこっちゃねぇ。幕府の狗になった覚えもない。俺は、俺の想いの為だけに、龍閃組に名を連ねてる。それだけだ。……それと同じで。お前達が何をどう考えてようと、何をどう思ってようと、俺はどうでもいい。それも、正直、知ったこっちゃない。復讐だの仕返しだの、そんなことに何の意がある? とは思うがな」
「……だから? 何がどうあろうと構わない、気にしない、知ったことではない、と言いながら、お前は俺に、説教でもしたいのか?」
「あ? 誰が、お前相手に説教なんて面倒臭せぇことするか。────俺は多分、剣と剣の道さえあれば生きてける、どうしようもねぇ馬鹿で、それ以外、何がどうあろうと構わねぇし、気にもしねぇし、知ったこっちゃねぇが。……それでもな、近頃は思う。お前達がやろうとしてたことの一番の根っこは、復讐とか、恨みを晴らすとか、そういうことじゃなくて、世直しなんだろう、って」
「…………お前に、何が判──」
「──只の復讐でも、只の恨みでもないんだろ。だったら、それでいいじゃねぇか。……これまでのお前達のやり方にゃ、何が遭っても俺は頷きなんざ返さない。認められねぇものは、どうしたって認められない。……でも。只の復讐じゃないなら。只の恨みじゃないなら。しゃんとしてりゃいいだろ。ぐだぐだ悩むな、みっともねぇ。そんなんだから、あんな得体の知れない、気持ち悪りぃ物の怪相手に、知らぬ間の手加減しちまうんだ」
するすると、水か何かのように喉の奥へと酒を落としつつ、至極不機嫌そうな態で京梧は語り、
「……やはり、見当が付いていたんだな」
彼と同じ態で酒を飲み下しながら、小さく九角は応える。
「何の?」
「何故あそこに現れたのかも、正体も判らんあの物の怪が、どうして一度は俺達の奥義が弾き返せたのか、の訳の見当が」
「判らねぇ訳ねぇだろ。お前、俺の目を節穴と間違えてねぇか?」
「節穴などとは思っておらん。だから、見当が付いているのだろう? と、あの時言った。お前のような山猿に、こちらの繊細な事情が汲み取れるとは意外だったが」
「…………繊細とか、自分で言うかねぇ」
「お前には、それくらい言わぬと通じなかろう? 違うか、京梧」
「天戒。そういう減らず口を叩く奴は、世間では繊細とは言わねぇ」
────そこで。
同じ座敷で共に飲み始めてより初めて、二人は目と目を合わせた。
長らく静けさを保っている座敷がどうしても気になって、次の間に、桔梗や九恫と共に詰めた風祭は、落ち着かぬ風に、立ったり座ったりを繰り返していた。
「何で、御館様は、あんなんと何時までも呑んでんだよっ!」
──京梧と九角が座敷に籠ってより一刻程が経つと言うのに、酒を切り上げようとしない二人に焦れて、彼は噛み付く風に、桔梗と九恫に訴える。
「若がしたくてしてるんだ、お前が騒ぎ立てても仕方無いだろう」
「坊や。少し落ち着いたらどうなんだい。鬱陶しいねぇ」
けれど、冬眠前の小熊のように部屋の中を彷徨きつつ喚く彼を、九恫も桔梗も軽くいなした。
「お前達、気にならないのかよ、あの馬鹿剣士と一緒なんだぞっ!? 御館様に何か遭ったら……っっ」
「蓬莱寺の頭の中には、剣のことしかないらしいのは俺も認めるが、だからって、どうにかなる訳ないだろうが」
それでも、風祭は怒鳴るのを止めず、やれやれと、九恫が、ぺちりぺちり、剃髪を叩いた時。
それまで静まり返っていた座敷の方から、どっかんっ! と言う大きな音が響いた。
「天戒様っ!」
「ほらみろ、やっぱりっ!」
「まさか…………」
その音を聞き、ぱっと三人は顔を見合わせ、慌てて部屋より掛け出ると、座敷の襖を容赦無く開け放つ。
「だからっっ!! そうではないと何度言えば判る、龍のあの技は、右から振り被るようにだな──」
「──違うっつってんだろ! ひーちゃんのあれは、拳出す前に先に左脚をこっちに捌くだろうがっ!」
「それは判っていると、それこそさっきも言ったろうがっっ。脚を捌く方はそっちでも、技そのものが打たれるのは右側なのだから、一旦、こちらに、こう……」
「まどろっこしいってんだよ、んなことたぁっ。間ぁ取った所為で、やり合いが長引いたら良くねぇぞ? 何たって、相手が相手だ」
「お前の言いたいことは判るが……。それこそ、相手が相手だ。手の打ち様を、様々考えておいた方がいいだろう?」
「……そりゃ、まあな……」
────桔梗と風祭と九恫の三名が、京梧の暴挙──と彼等は信じていた──を止めようと座敷に踏み込んだ時、彼等が脳裏に描いた最悪の事態を具現したように、九角も京梧も、座敷の真ん中で、互い、抜き去った刀を手にしつつ向き合い、怒鳴り合っていたが。
どう聞いても、二人が言い合っているのは所謂諍いではなく、三人は、きょとんとしながら、その場に突っ立った。
「……ん? ああ、お前さん達か。今、忙しいんだよ、邪魔すんじゃねぇ」
「すまぬ、騒がせたか? だが、取り込み中だ。話があるなら後にしてくれ」
そんな彼等を一瞥し、二人は又、『言い合い』を再開する。
「あーー……。で、何だったっけか、天戒?」
「……京梧。お前な…………」
「つか、頭使うよりも、とっとと、ひーちゃん捕まえてだな」
「仕方無かろう、どう急いでも、朝にならなければどうしようもない」
「……そりゃそうだ」
『言い合い』を続けつつも、刀を納めて同時に座り込んだ二人は、酒の膳を引き寄せつつ、ああでもないの、こうでもないの語りながら、突っ立ったままの三人のことなど忘れ、あれ程に強い龍斗から一本取る法に付いて話し込み始めてしまい、
「…………お邪魔みたいだねぇ、あたし達」
「だな……」
「……馬っ鹿馬鹿し。寝よ……」
二人を置き去りに、三人はとっとと座敷を出て行った。