二月の二十五日から数えて、一週間と一日後の三月五日──京一が、実家に顔を出しに行く、と決めたその日までの八日の間。
龍麻は、毎日毎日、鬱だった。
これまでのことと、これからのことを考えたら、どうしたって避けて通れる筈も無いからと、京一と共に蓬莱寺家を訪れる覚悟は決めたけれど、彼は激しく鬱だった。
平気だから、大丈夫だから、と京一に幾度となく宥められても、どんな顔して京一の両親に会えばいいのか、彼には判らなかった。
自分が、酷く厚顔無恥なことをしようとしてる気がして仕方無かった。
恥知らずにも程があるんじゃないかな、とも考えた。
三月五日なんてやって来なければいい、なんて叶わぬ願いさえ願ったが、日々は、無情にも刻々と流れ、あっという間に日は替わり、月も替わり。
──やって来てしまった、三月五日 土曜。
帰国して半年が経っているから、今更、中国土産もないだろうと、午前、新宿駅前のデパートで手土産を買い求め、午後早く、鉛を詰め込んだように重たい足を引き摺って、京一に連れられるまま、龍麻は、蓬莱寺家の玄関前に立った。
「あの、さ。京一。その──」
「──今更、嫌だとか何とか、往生際の悪いこと言うなよ」
「……わ、判ってるよ……。男に二言はないけど。ないけどーーー! ……ああ、どうしよー……」
「ったく……。平気だって、何度言やぁ判るんだかなー……」
高校時代は見慣れ過ぎていた門柱──あれから約六年近くが経った今はとてもとても懐かしい、が、地獄の一丁目に続く入り口の如くにも思えるくらい恐ろしく感じるそれを眺め、龍麻は、慄いた風に及び腰になったが。
京一は情け容赦無く、龍麻の手を引き、そこを潜った。
前日、わざと両親共に不在の筈の時刻を狙って電話し、留守電に、「明日、ひーちゃんと一緒に顔出し行くから」と入れておいたから、待ってはいるだろう、と呼び鈴も鳴らさず、彼は玄関扉を開け放ち。
「ただい……──。……お袋?」
「こんにちは、ご無沙汰し──。…………あの、おばさん……?」
敷居を跨いで直ぐ、己達を待ち構えていた風に仁王立ちしていた京一の母に出会し、京一も、京一に引き摺られつつ中に入った龍麻も、唖然、と彼女を見遣った。
「お帰りなさい。……と言いたい処だけれど。この家に上げる前に、京一と龍麻君に訊きたいことがあるの」
動きを止め、何事? と目を見開いた二人に、京一の母は、腹に一物隠しているとあからさまに判る笑みを、にっこーーーーーーー……、と湛えながら、問い質したいことがある、と切り出す。
「……何をだよ」
「まさかと思うけど、貴方達、修行の旅に挫けて帰って来たんじゃないでしょうね?」
「んなこと、ある訳ねえだろ……」
「本当に?」
「はい。あの、おばさん? 俺達、一寸した事情で、一時帰国しただけなんです。事情が片付けば、又、修行に戻るつもりで」
「あ、そうなの?」
彼女曰くの、訊きたいこと、とは、二人が帰国した理由で。
修行の旅に挫けて帰国した訳じゃない、と京一と龍麻が口々に告げた途端、彼女は、けろりと態度を変えた。
「そういうことならいいのよ。なら、上がってもいいわよ。……ああ、そうそう。改めて、お帰りなさい。──お父さーーん! 京一と龍麻君が帰って来たわよ! 修行に挫けた訳じゃないんですってー!」
そうして彼女は、今度は朗らかに笑むと、短い廊下の突き当たりにある居間にいるのだろう夫──京一の父へ大声で告げながら、さっさと踵を返した。
その手に、京一や龍麻からは死角になる壁に立て掛けておいたらしい、薙刀を掴みつつ。
「………………京一」
「……何だ? ひーちゃん」
「あのノリ、すんごく懐かしいんだけど……、ああ、おばさん、変わりないなー、って思えるんだけど……、俺、色んな意味で怖い…………。帰りたい……」
「皆まで言うな、ひーちゃん。俺だって帰りてえよ。……挫けて帰って来たりしたらぶっ飛ばすって、あの時の科白、本気だって判っちゃいたけど、薙刀まで引き摺り出して来るか? 普通……」
「普通は有り得ないと思うけど、おばさんだし……」
「……まあな」
京一と二人で中国に旅立つ、と龍麻が蓬莱寺家に挨拶に訪れた日、二人に告げたことを実行すべく、己が息子と、己が息子同様に可愛がっていた彼が六年振りに帰って来たというのに、いの一番に『それ』を確かめた彼女に恐れ慄きつつ。
京一は、早くもげんなりしながら、龍麻は、ちょっぴり涙目になりながら、彼女が向かっただろう居間へと、ソロソロ、足を運んだ。
「二人共、お帰り」
忍び込んだ不審者の如く、気配を殺す風にして覗き込んだ居間には、京一の父がおり。
のんびり、昼のニュース番組を見ていたらしい京一の父は、そー……っと入って来た彼等を、誠に爽やかに迎えた。
「ただいま」
「こんにちは、おじさん。お久し振りです」
そんな彼の様に、二人は勢い、ホッと胸撫で下ろしたが。
「父さんは、武道のことはよく判らないが、五年やそこらで修行が終わるとは思えなかったからね。てっきり、二人共、挫けて帰って来てしまったんじゃないかと疑ったんだが。そうじゃないなら、何も言うことはないよ。──ま、今日はゆっくりして行きなさい」
「あ、有り難うございます……」
「は、はは…………」
人当たりが穏やかなだけで、連れ合いと同じ思考回路を持つ彼の、さらっとした弁に、龍麻も京一も、ビミョーに口許を引き攣らせた。
「取り敢えず、お茶にしましょ。あんた達が元気にやってるなら、正直、それ以外のことはどうでもいいけど、少しくらいは、中国の話も聞いてみたいし。ねえ? お父さん?」
と、そこへ、急須だの湯飲み茶碗だのを乗せた盆を携えた京一の母が、キッチンから戻って来て。
「そうだな。少しくらいは。予想に反して、二人を叩き出さずに済んだからな」
「本当に。昨日、京一の留守電聞いた時は、てっきり挫けたんだと思って、物置から薙刀まで引き摺り出しちゃったけど。振り回さずに済んで良かったわー。流石に、ご近所に何事かと思われるでしょうし」
「母さん。そうは言うけれど、本当は、久し振りに振り回してみたかったんじゃないのかい?」
「やだ、お父さん。そんなこと言うまでもないじゃないの。昔取った杵柄ですもの。未だ、馬鹿息子なんかに遅れは取らないわよ」
さも、今日の天気を語り合っている如くな風情で、のほほん、物騒なことを言い合い出した夫婦を無言で眺めながら、京一と龍麻の二人は、「相変わらず過ぎる、この夫婦……」と内心でのみ思いつつ、ちんまり、と腰下ろした。