ディマプールに潜り込んだ日の夜、龍麻と京一が部屋を得た宿は、向こう見ずなバックパッカーでも泊まろうとは思わないかも知れない、場末も場末の、汚い安宿だった。

それでも、入域許可証を携えていない、一目で外国人と判る彼等は足下を見られ、相場よりも少々だけ高い宿代を吹っ掛けられたが、値切り交渉には応じて貰えたし、京一に促され、龍麻が一寸、笑顔見せつつ愛想を振り撒いたら、その安宿ではまともな部類の部屋の鍵を出して貰えた。

まともな部類、とは言っても、汚いことには変わりなかったけれど、見知らぬ誰かとの相部屋ではなく、小さな風呂まであった。

たまに、蛇口を蹴っ飛ばさなければ湯が出なくなるような、本当に小さな狭い風呂だったが、野宿をするのも半ば当たり前に近くなっていた彼等にしてみれば、風呂も部屋も、それなりに上等と言えた。

──そんな部屋の、座るだけでギシギシとうるさい音を立てる、壊れ掛けているんじゃなかろうか、とすら思えるベッドに腰掛けて、その日の夜半が近付いて来た頃、先程洗ったばかりの髪から垂れる雫をおざなりに拭いながら、龍麻も京一も、疲れから来る溜息を零していた。

「疲れたぁぁ……」

「俺も。結局、無駄足だったなー……」

いい加減な地図──単に、都市が無秩序に拡大して行くスピードに、公式な地図の作成が追い付いていないだけだが──と、あの女性に教えて貰った話を頼りに、街の東の外れの、人気が途絶える辺りまで、えっちらおっちら足を運んだのに、大昔、何だかの神様が現れたの現れないのとの言い伝えを持っているらしいその場所には、一般的な意味でも龍麻達が求める意味でも何もなく、きっぱりはっきり無駄足で、彼等が得たのは、足の痛みだけだった。

「あんなトコまで歩いたのが、間違いだったかなあ……」

「まあな。でも、バスも何も通ってねえって話だったし」

「それは、判ってるけどさー。はぁぁぁぁ……」

「なーーんか、本格的に外れだな、ここも。……後、二、三日くらいは粘って、なんて昼間は言ったけど、こりゃ、早々に退散するべきか?」

「うん。俺も、そんな気がしてきた」

あー、足が痛い、と。

未だ雫を垂らす濡れ髪を放り出し、龍麻はベッドに仰向けに引っ繰り返って、京一も、しんどそうに腰掛け直す。

……二人がそんな風に動いた所為で、又、ギシリ……、と、ベッドがうるさく鳴いた。

「折角、あのオネーチャンおだてて話聞き出したってのに……」

耳障りな音が高く響いたからか、その音を切っ掛けに、何故か彼等の会話は途切れてしまった。

が、その刹那の京一は、沈黙を快く思えなかったようで、ボソッと、その日の出来事に絡む独り言を囁き身動みじろいだ。

だから、又も、ベッドは軋み。

京一の独り言に、耳障りな音に、気分を逆撫でられた龍麻は。

「ホントに、美人だったよね、あの人。京一のことだから、名前くらい訊いたんだろう?」

京一も、己自身も追い詰めるような台詞を吐いてしまった。

「名前なんて訊いてどうすんだよ、別に、そんなこと訊かなくったって、話は聞けるだろ?」

それでも、龍麻は何とか冗談めかしたつもりだった一言に、京一は、はっきり眉を顰めて振り返り、寝転ぶ彼の面を覗き込んで。

「…………そろそろ寝るか、ひーちゃん。この街から抜け出すにしても、ちっとは算段がいるだろうから、きっと、明日も忙しいだろうしな」

困ったような笑みを頬に刷きつつ、もう一つのベッドに行くべく腰を浮かせた。

「あ……、あの…………っ」

……向けられてしまった背へ。

何故か、途方もなく遠く感じられる京一の背へ。

龍麻は咄嗟に、腕を伸ばした。

跳ね起き、軋むベッドの上にペタリと座り込んで、両腕を一杯に伸ばし、だらしない風に軽く靡く、京一のTシャツの裾を彼は掴む。

────困惑に縁取られる、京一らしくもない儚い笑みなど、浮かべないで欲しかった。

昼間、あの女性の前で見せたような、明るい笑顔を作って欲しかった。

以前のような、眩しい、弾けんばかりの笑みを、自分に向けて欲しかった。

他の誰でもなく。自分に。

困惑だけに縁取られた、儚いだけの笑みを浮かべたまま、離れていかないで欲しかった。

息が掛かる程の傍にいて欲しかった。

以前のように笑って欲しくて、その笑みを自分に向けて欲しくて、傍にいて欲しかった。

……けれど、もう、そんなことも願えないのなら。

願っても叶えられないのなら……、せめて。

………………せめて。

「ひーちゃん?」

────ギュッと裾を握り締めた腕に引かれ、何事かと京一は振り返った。

振り返り様、視線を落とせばそこには、精一杯腕を伸ばし、Tシャツの裾を掴みながら、深く俯いている龍麻の姿があった。

何も言えず、少しばかり肩を震わせながらの姿が。

「…………あのよ、ひーちゃん」

そんな彼の姿を、行かないで欲しいと言わんばかりに裾を掴む腕を、ほんの僅かの時だけ見詰めてから、京一は、とても明るく龍麻を呼ぶ。

「……何?」

「ひーちゃんだって疲れてるって、判ってっけど。一寸さ、我が儘言いたくなっちまったんだよ」

「…………? 我が儘って……?」

「今夜は、ひーちゃんと一緒に寝たいなー、って。いいだろ?」

そうして彼は、裾握り締める腕を取り、手を繋いだまま傍らに座り直すと、緩く龍麻を抱きながら、軽く、ねだるように笑んだ。

「京一…………」

「……いいだろ?」

「…………うん……」

龍麻が求めているからではなくて、己が求めているから、共に眠りたいとねだるのだと、そんな態度を取ってみせた京一に、龍麻は一瞬、面を歪め、けれど、こくりと頷いた。

京一の優しさに、その優しさが生む残酷さに、眩暈にも似た何かを感じながら。