未だ高校生だったあの頃の彼等のホームグラウンド、新宿歌舞伎町がそうであったように、その安宿の建つ付近も、場末故に、夜半近くとなっても喧噪は絶えない。

建て付けがおかしくなって久しいらしい窓を閉めて、お義理程度の薄いカーテンも閉めて、部屋の灯りを落としても尚、汚くて狭い彼等の部屋に、通りを行き過ぎる人々が立てる喧噪も、通り過ぎる車のヘッドライトらしき光も、盛大に忍び込んできた。

けれども、音も光も、龍麻には、酷く遠い何処かのモノのように感じられた。

つい先程の、京一の背中のように。

だが、彼にとって本当に遠かったのは、京一の背中でも、盛大に忍び込んでくる音や光でもなく、世界そのものだったのかも知れない。

その刹那の彼は、世界そのものに置き去りにされているような心地だったのかも知れない。

しかし、肌に触れる物は、そんな心地の彼にもリアルだった。

三日に一度程度しか取り替えられぬ、おざなりに洗われた擦り切れたシーツや、腹が立つ程に軋むベッドの狭さや、狭いそこに何とか共に横たわった京一の体温は、必要以上に現実だった。

「龍麻」

見えるモノ、聞こえるモノは遠いのに、何故、触れるモノはこんなにも近いんだろう、と、ぼんやり思っていた龍麻の耳許に、京一の囁きが落ちた。

「ん……」

吐息と、両の瞼を閉ざすことで名を呼ぶ声に応えた龍麻に、今度は、覆い被さってきた彼よりの、接吻くちづけが落とされた。

重なった唇は離れず、舌先が滑り込み、京一の、長い、節のはっきりした指先が、龍麻の肌の上に忍んで程無く。

彼の手は、互いの寝間着代わりの薄手の服を雑作も無く剥いで、床の上に舞わせた。

思い出したように、窓とカーテンの向こうから強い光が差し込む部屋の片隅で、一糸纏わぬ姿になった京一と龍麻は、改めて、軋むベッドの上に縺れ合う風に倒れ込む。

「あ……。んっ、はぁ……っ……」

抱き合いながら横臥した身に添えられた腕、施された幾度目かのキス、項を支える大きな手、背を這い出した指と掌。

そんな、細やかなモノに呆気無く煽られて、龍麻は甘い声を洩らし始めた。

──流浪の旅に出た日から数えれば、約七ヶ月。

『あの夜』から数えれば、約八ヶ月半。

それだけの月日が流れても、指折り数えられるだけしか京一と身を結んでいないのに、龍麻の躰は簡単に、与えられる悦を受け入れ始める。

『あの夜』から──始まりの時から、彼はそうだった。

京一も、そうであったように。

彼等の間に渡されたのは、何処までも、ひたすら、思いもしなかった熱と快楽だけだった。

痛みも苦痛も、ありはしなかった。少なくとも、躰には。

……それを、双方共に、怖いと思わなかったと言ったら嘘になる。

龍麻が感じた恐怖と、京一が感じた恐怖は、次元も質も違う恐怖だったけれど、彼等は互い、それを怖いと感じたことがあり、龍麻は今尚、京一との睦み合いから生まれるモノを、怖いと思う瞬間がある。

だけれども、怖いと思うことさえある行いが齎すのは、熱と快楽以外に有り得ぬから、大河に浮かべられたちっぽけな笹舟のように、龍麻は、生み出される熱と悦に翻弄された。

「京一……。京一……っっ」

互い、生み出し、互いの間に渡し合うモノに翻弄されながら、流されながら、龍麻は、幾度も幾度も京一の名を呼んだ。

名を呼んで、首筋に、背に、腕を廻して強く縋った。

「……龍麻。龍麻……」

そうすれば、浮かされた風に名を呼び掛けた数だけ、京一も、龍麻の名を呼んだ。

────京一が龍麻を呼ぶ声は、匂い立つ程に甘く、そして優しかった。

抱き竦めた龍麻の肌の、至る所に熱を齎す手も、足先にまで触れる唇も、愛おし気に掌を這った舌も、酷く、優しかった。

抱き合いながら彼が仕掛けた、息までをも奪うようなキスも。

そんなキスを施しつつ、絡めた脚で開いた龍麻の躰の最奥に、ねっとりとした何かを乗せた指先──何時の間に、そんなものを掬い取ったのか、龍麻には判らなかったけれど──を忍ばせた際も。

何も彼もが、酷く、優しかった。

こんな風に抱かれたい訳じゃない、と、龍麻は思わずにいられなかった程に。

「京一…………っっ!」

だから龍麻は、詰るように彼の名を叫び、熱や悦が齎すのとは違う涙を、両の眦に湛える。

………………こんな風に抱かれたかった訳じゃない。

与えるでなく、求めるように抱いて欲しかった。

労りなど要らなかった。優しさなど要らなかった。

唯、渇望しているように、全てを貪るように、抱いて欲しかった。

我が儘で、身勝手な望みだと、判ってはいるけれど。

でも。

己が彼を求めるように、せめて、躰だけでも求め返して欲しかった。

暖か過ぎて痛いだけでなく、優し過ぎて残酷なひとに、せめてもの嘘を吐いて欲しかった。

言葉で嘘を言えぬ彼に、躰で嘘を言って欲しかった。

なのに、彼は。京一は。

躰での嘘すら、語ってはくれなかった。

…………だから。

龍麻は涙を浮かべた。

「龍麻……?」

──奥へと指を進めた途端、己が名を叫びつつ泣き濡れ出した彼を、京一は訝しみ、瞬きと共にほろりと崩れた涙の雫を、舌で掬い上げた。

「おい? どうした……?」

欲に浮かされての涙ではないと、直ぐに判ったのだろう。

龍麻の背を抱いていた左腕に力込めて、一層躰を引き寄せると、京一は、泣き出した彼の額を、己が胸に緩く押し付ける。

「京一……」

「龍麻? どうしたんだよ」

「……その…………」

よしよしと、幼子を慰めるように髪まで撫でられて、龍麻は息を詰めた。

何でもないと言うのが良いか、どうもしないと言うのが良いか、それとも……、と。

「……龍麻?」

その間にも、京一は訝しみを深め、本当にどうしたのかと、彼の顔を覗き込もうとした。

──その寸前。

京一の背に廻していた腕を首筋に絡げ直して、龍麻は、彼の耳許に唇を寄せ。

もっと……、と、低く小さく囁いた。

……その刹那、京一が、ぴたりと蠢きを止めた。

それを肌で感じ、龍麻は身を竦めた。

胸の中で、面を隠す風にした彼の頤を京一は捉え、少しばかり強引に上向かせると、唇をも捉えた。

唇が唇を捉えるや否や、改めて奥へと忍んだ指は蠢きを思い出し。

ベッドのうるさい軋みも、窓の外から忍び込む喧噪も掻き消す、高い嬌声を龍麻は放った。