春の盛りを過ぎたとは言え、暦は五月初頭。
未だ、廃屋の如き古びた校舎の片隅で、延々と眠りこけるには肌寒く感じる季節なのに、そんな体感を覚えることもなく、昏々と眠り続けてしまった二人が目覚めたのは、もう、とっぷりと日が暮れた後だった。
「ん……? 夜、か?」
「……いけない、眠ってしまったようだ」
京梧は龍斗に肩を預ける風に、龍斗は京梧に頭を凭れる風に、それぞれ寝ていた彼等は、ふい、と同時に瞼を抉じ開け、辺りが暗闇に支配されているのに気付き、慌てて校舎を出た。
「おや? まさか、丑三つ時か?」
「みてぇだな。何だって、こんなに寝ちまったんだか……」
「疲れていたのだろう、私も、お前も」
駆けるように、旧校舎も、取り囲む壁をも出た二人は、月明かりが仄かに照っているのを知り、天頂を見上げ、下弦の月──二十三夜の月がそこにあるのも知って、目を見開いた。
──二十三夜の月が天頂に輝くのは、丑三つ時だ。
それを知っている彼等には、大凡の現在時刻が計れるから、夕刻の頃から約十時間以上もの間、自分達は旧校舎の教室の片隅で眠ってしまった、と気付くことも出来て。
「………………京梧。帰ろう」
「……ああ」
こんな夜更けになるまでこの場所にいたのに、結局、懐かしい者達の誰にも逢うことは出来なかった、あの頃の皆にとって、自分達は、もう…………。──と、そんな苦い想いで胸の奥底を満たしつつ、龍斗も京梧も歩を進めた。
旧校舎より遠退き、学園を囲むコンクリートの壁伝いに行ったから、自然と二人は、体育館裏の、あの桜の木の傍らを行き過ぎることになり。
「桜、か……」
薄紅の花の名残りなど何処にもない、新緑の葉だけを生い茂らせている古木を、立ち止まった龍斗は見上げる。
自分達の縁の場所に、江戸の名残りを──自分と京梧の『名残り』を留めているのは、自分達を憶えていてくれるのは、もう、この古木しかないのだろうか、と言わんばかりの呟きを洩らしつつ。
「……時代は流れてる。それだけのことだ。────帰るぞ、龍斗」
そんな彼へ、もう、名残りや悔いに触れ続けるのは止めよう、と暗に京梧は言って、龍斗の手首を掴んだ。
「……あ」
「……っつ」
──────その時。
不意に、風が立った。
湧いた一陣の風は、二十三夜の月が照らす闇の中浮かび上がる、古木の新緑をさわさわと鳴らせ、強かった風が舞い上げた、薄茶色の地面の砂埃が目に入った龍斗と京梧は、思わず掌で目許を押さえた。
彼等がそうする間にも、新緑を揺らした風は、二陣、三陣と吹き、葉の鳴る音は、辺り一帯を満たし。
滲んだ涙と共に、瞳に忍び込んだ砂埃を拭った彼等の視界の端を、烏の濡れ羽色のような艶やかな長い黒髪と、燃えるような長い赤髪が、絡み合う風に靡く様が掠めた。
「何だ? 今のは。……髪?」
「………………京梧?」
「あ?」
「視えたか? 視えたのか?」
何やら、黒髪と赤髪のようなモンが見えたが、見間違いか? ともう一度目を擦った京梧の呟きを聞き、やはりそれを視た龍斗は、京梧の肩を掴んで揺さぶる。
「視えたっつーか……、髪みたいな何かなら、ちらっと」
「嘘ではないな?」
「んなことで、嘘吐いてどうすんだ。でも、多分気の──」
「──いるのだな? そこに、いるのだろう?」
何故、くどいくらい、本当にそれを視たかと龍斗が問うのか、その理由に気付かぬまま、真だと京梧が答えれば、パッと掴んでいた彼の肩を離した龍斗は、振り返り、何も無い宙を見据え、『何者』かへ向けて問い……やがて、にっこりと、心底嬉しそうに顔を綻ばせた。
「……ひーちゃん? おい、龍斗? 何がどうなってやがる?」
目紛しい龍斗の様子の移り変わりに京梧は付いて行けず、一体何が? と困ったように顔顰めた。
「ああ、そうか。お前には、弾みでしか視えぬのだな。──……在るのだ。そこに。藍や天戒が。他の皆も。確かに在ってくれる……」
「…………そうなのか?」
「そうだ。今の今まで、一体何処に隠れていたのか、そんなことは判らないが。昼の内は、毛筋も姿見せてくれなかった彼等が、確かに今、そこに在る。…………ああ、お前にも、視えれば良いのに。お前にも、皆の姿を視せることが出来れば良いのに……」
が、龍斗は、眉間に皺を寄せた京梧へも笑みを向け、理由
自分達のことなど忘れてしまったのかも知れないと、不義理な己のことなど許してくれないのかも知れないと、たった今までそう思い込んでしまっていた、懐かしい皆の姿が、直ぐそこに在るからだ、と。
「そうか。…………良かったじゃねぇか。──連中、どんな感じだ?」
それを聞き、皺を寄せていた面を解し、京梧も又、ふわりと笑い、彼の瞳には、唯の暗闇としか映らぬ宙を眺めた。
「……あの頃のままの姿で、あの頃のままに、私とお前を見て、仕方の無い奴等だと、困ったような、呆れたような、そんな顔をしている。……でも、皆、私達を忘れてはいなくて、私の不義理を許していない訳ではないと、そう……」
「………………そうか」
京梧も見遣る、己には在りし日の皆が確かに映る宙を唯々見詰め、龍斗は声を詰まらせ、泣き出しているのかと思う程に震える声を飲み込んだ彼へ、見据える宙より瞳逸らさぬまま、京梧は一言だけを繰り返した。
「……え? ………………だが、そのようなこと……──」
……と、京梧には視えない懐かしい皆と一人語らっていたのか、眦に、うっすら涙すら滲ませていた龍斗が、急に視線の先を変え、やはり、京梧には『視えない何か』とやり合い始めたので、
「おいおい……。こんな時に、又、何時ものってか?」
思わず京梧は小言を垂れそうになったが。
「────京梧」
「龍斗、今ばっかりは……って、あん?」
「皆と『皆』が、今宵だけ、私達に『特別』をくれるそうだ。…………目を閉じろ。そして、もう一度開け」
「……何だかよく判らねえが……、一遍、目ぇ瞑って、もっぺん開きゃいいんだな?」
彼の苦情を無視し、龍斗がそんなことを言い出したので、渋々、言われるがまま、京梧は瞼を閉ざし、そして、今一度開いた。