「──……だからね、遊びに行こう……って、キョーイチくん? 何してるの?」
────紐に絡んだ指先が、するりとそれを解くのと、口を開かれたそこから、微かな衣擦れの音を立てて白木の木刀が抜かれるのとを見留めて、未だ未だ立ち話に興じ続けるつもりでいたらしい彼女は、一瞬だけ口を噤み、大袈裟に首を傾げた。
「一寸の間だけど、久し振りに立ち話もしたしさ。そろそろかと思って」
「そろそろって?」
「『お別れ』って意味だよ」
抜き去ったそれ──神刀・阿修羅を、己の右下半身に添わせつつ下げ、先程よりの笑顔も消さず、京一は、じゃあな、と言った。
「……素っ気無いなあ。遊びに行こうよって、あたし、マジで言ってるのにお別れなんて。……あ、判った。イイ人出来たんでしょ。だから、あたしの誘いなんか乗ってくれないんでしょ」
「そうじゃなくて。……ま、『そういう相手』がいるのは確かだけどな」
「…………どんなコ?」
「親友」
「……あれ? キョーイチくんの親友って、男の子じゃなかった……? 確か、前に話してたよね。タツマくん……だったっけ?」
「ああ、そいつ。よく憶えてんな、そんなこと」
「そりゃあそうよ。キョーイチくんがしてくれた話なら、何でも憶えてるわよー。……でも、何で男の子? キョーイチくん、女の子の方が好きでしょ? 何かの弾みとか間違いとか? 今からでも、女の子に乗り換えればいいのに。……あたしなんか、どお?」
「気持ちだけ受け取っとく。……悪いな」
昼下がりの、寂れ過ぎた歌舞伎町の狭い裏路地で、笑顔のまま、やけに白い木刀の切っ先をゆっくりと持ち上げながらも、口先では己の相手を続けてくれる彼を、彼女は瞳の大きさも変えず見詰め続け、尚も口を開く。
「キョーイチくんが新宿に帰って来てるって知ったから、折角、『来た』のになぁ」
「……何時までもこんなトコにいないで、帰った方がいいって。──じゃ、今度こそ」
だから京一も、続く立ち話にだけは付き合い続け、振り上げた阿修羅の切っ先を、す……、と下ろした。
「…………御門のヤロー……。あいつ、何がどう『面倒臭い』のか判ってて、わざと黙ってやがったな。後で、ぜってー文句言ってやる。覚えてろよ」
……又、己以外『何も』いなくなった路地裏で、役目を果たした阿修羅を刀袋に押し込みながら、京一は再び、こんな仕事を押し付けてきた友への悪態を吐いた。
────高校時代の顔馴染みだった彼女の姿を、久し振りに目にした時から判っていた。
思わず発した「あれ?」の声は、思い掛けず懐かしい顔に出会したからではなく、もうこの世には在る筈の無い者を見たが故の呟きだった。
……あの頃は大好きだったし、今尚大好きではある、『オネーチャン』と言う興味対象に対して発揮される彼の記憶力は抜群だ。
たった今、彼の目の前で消えた彼女の当時のスリーサイズをも、寸分の狂いなく言える程に。
だから、彼女が、自身の申告よりも三、四つは歳若い筈だ、もしかしたら成人したばかりかも知れない、と言う噂も、何時だったか、「夜の仕事から足を洗って、何処か遠くで新しい人生を始められたら」と、夢見るように呟いていたのも、京一はよく憶えていたし。
当時、少しばかり長めの立ち話に興じる度、彼女が、本気とも冗談とも付かぬ口振りで、自分と遊んでみないかと、割り切った関係で構わないからと、仄めかしていたのも忘れてはいなかったし。
母校・真神の卒業式直前、何が理由だったのかまでは知らないが、借りていた安アパートの狭い部屋で、彼女が自ら命を絶ったと言う話を耳にしたのも、勿論。
────……そんな、もう今はいない彼女の姿を九年振りにその目で視た時。
自分には、幽霊は視えない筈なのに、とも京一は思った。
けれど、理由は直ぐに思い当たった。
視えない筈の己の目にも、その姿を映す程の未練が、彼女にはあったのだろうと。
その未練はきっと、あの頃の、冗談めかした彼女の科白の数々に潜んでいるのだろうと。
但し、それは、色恋が生む艶めかしい未練ではなく、例えるなら、別の道を選んでいたら、彼女にも訪れたかも知れない『別の人生』への一方的な期待のような、依存にも似た何かのような……、兎に角、身勝手とは言えるだろうモノであるのだろうと。
そして、その未練を晴らせる──否、断ち切れる者は、既に限られてしまっているのだろうな、とも。
「……さて、と。拳武館行かなきゃな」
…………一瞥した時から、彼女が霊魂であるのに気付いていたように、只の霊魂でなく、『面倒臭い』、行きずりの者に厄災を振り撒く存在と化し始めているのにも気付いていた京一は、肩を竦めながら、つらつらと考えて後
我ながら残酷だな、と感じなくはなかったけれども、その刹那の彼が抱く思いは、本当に『面倒臭い』、と言うそれのみだった。
他人の、身勝手で一方的な期待などに、誠実さを以て接する気など、彼には更々ない。
そのようなこと、『面倒臭い』としか彼には感じられない。
京一の目に映るのは、最早、たった一人だから。
「ひーちゃん、マジで拳武館まで来る気あんのかな」
────担いだ刀袋で、意味もなく何度か肩を叩き、歌舞伎町の人気ない路地裏を新宿駅目指して行きながら、京一は、広がる青空へと目線を上げた。
支度を終え、拳武館高校へと出掛ける旨を家主達に伝えようと踏み込んだ茶の間の片隅に置かれている時計へ、ふと目をやったら、既に、時刻が午後三時半を回っていると気付かされ、龍麻は焦り顔を拵えた。
「うわ、もうこんな時間。行ってきますー!」
新宿駅から拳武館高校の最寄り駅までは、どのルートを辿っても、一時間は絶対に掛かる。
道場から拳武館の正門を潜るまでで計算すれば、一時間半は見ておいた方が無難だ。
だから彼は、声にも焦りを滲ませて、卓袱台を囲みつつ茶を啜り始めた京梧と龍斗に声高に告げると、道場を飛び出した。
京一のようにあからさまな態度は取らなかったけれども、数日前、御門に浜離宮まで呼び付けられ、押し付けられた仕事は、龍麻にも、面倒臭いなー……、としか感じられなかったから、京梧の提案のお陰で、面倒なそれを京一だけに任せる格好を取れた時は、ラッキー、と思ったが。
基本的に彼は、お人好しであり善人であり真面目なので、通って来た高校生達の指導を終え一息付いたら、「京一に悪いことしちゃったかなあ……」と後ろめたくなってしまい、相方を言い包める為だけに使った、「後で自分も拳武館に行くから」とのそれを、本当にしようと彼は決めた。
数時間前までは、葛飾区まで行く気など更々なかったし、どうして来なかったんだと京一に問い詰められたら、適当に言い訳すればいいだろう、と思っていたけれど、流石にな……、と思い直した。
だのに、稽古の後片付けや外出の支度に手間取った所為で、どう頑張っても四時に拳武館に到着するのは不可能だと気付いてしまった今の彼に出来ることは、せめて、一刻も早く新宿駅に到着出来るよう、走ることだけだった。
元々は反故にするつもり満々だった約束だし、京一とて、言わば教え子のような高校生達の出来を少しばかり覗く為だけに行っているので、遅刻した処でどうと言うことはないのだが、そこは、基本的には真面目、と言う性格をしている龍麻のこと。
行くと決めたからにはと、その真面目さが彼自身を急かしていた。
…………だと言うのに。
道場を出て十分と行かぬ、未だ西新宿の住宅街も抜け出ていない路上にて、先を急ぐ彼の目の前に、ダークスーツに身を固めた、堅気でないのが一見で判る男が一人、立ちはだかった。