その出で立ちも雰囲気も──兎に角、全身で「私は真っ当な商売をしている人間ではありません」と物語っている男を視界の端で捉えた刹那、既に龍麻は嫌な予感を抱いていた。

住宅街の直中とは言え、ここは大都会・新宿の一角、怪しいオーラをプンプンと振り撒く男が路上に立ち尽くしていても、有り得ないとまでは言えないが、男の風情は、己の行く手を阻んでいるとしか思えない、とも彼は感じた。

「……あの、何か?」

故に、急いでいる身としては、厄介事はさっさと片付けたいと言う思いも相俟って、彼は、眼差しを真っ直ぐ己へと注いでくる男へ、自ら声を掛けた。

……無謀とは思わなかった。

そんなことをしても、切り抜けられるだけの腕前を彼は持っている。

寧ろ、先手必勝、くらいの気持ちだった。

「緋勇、龍麻?」

「…………そうですが。俺に何か用ですか?」

すれば男は、正確に彼の名を告げてきて、ああ、やっぱり厄介事だ……、と内心でげんなりしながら、男より程良い距離を隔てて龍麻は立ち止まる。

「初めまして、今生の『黄龍の器』」

彼が足を留めると同時に、胡散臭い雰囲気を振り撒いて止まない男は、彼のこめかみに青筋を立てる単語を舌の根に乗せ、だから、龍麻は無言のまま、「盛大に機嫌を損ねました」と顔全体で訴えつつ構えを取った。

親達からも仲間達からも行方を晦まして、京一と二人だけであちこちを放浪していた際の経験より、己を『黄龍の器』と知って近付いてくる輩は、遠慮と言う言葉を忘れ、全力で打っ潰すに限ると思い知ったから。

況してや、「私はカタギじゃないです、非合法な怪しい組織の一員です」と自己紹介しながら歩いているような男相手に、遠慮や情けなんか。…………と思ったのだが。

「待ってくれ。君とやり合いたい訳じゃない。力尽くでどうこう、と言うつもりもない」

男は、佇むその場より一歩も動かず、降参のポーズを取る風に、軽く両手を上げた。

「信じない。信じられる訳ない。『黄龍の器』なんて言葉を口にする胡散臭い相手の言うことを、信じろって言う方が無理だと思うけど? どうせ、何処かの自称・謎の組織の一員とか遣いとかなんだろう?」

「それは、まあ、確かに。だが、胡散臭い謎の組織、と言うのは外れだ」

「だから。それが信じられないって言ってる」

「頭ごなしにそう言わず。少しくらいは取り合ってくれないか? 話に耳を貸す程度の余地はある筈だ。そうだろう? こちらは、武器の一つも手にしていない」

「……なら、どうぞ。急いでるんで、胡散臭くなくて謎でもない組織の話とかをしたいなら、出来れば手短に」

何をどう言われても、信じるつもりなど毛頭なかったが、確かに、男が武器を携帯している様子はなかったし、殺気のような物も感じられなかったので、龍麻は、構えを解く振りをしながら、話とやらを聞くだけは……、の態を取った。

「…………随分と、ストレートな嫌味だな。こちらが、絵に描いたような碌でもない謎な組織の一員、と言う思い込みを消してくれるつもりはないらしい。……でも、俺はそんな所の人間じゃない。『組織』に属しているか否かと言われれば、属している、と答えるしかないがね」

「で? 俺、手短にって言いませんでしたっけ?」

「そうだったかな? ──その辺りに関することを、今ここで、何も彼も君に伝える訳にはいかないが……そうだな。それでも君に言えることがあるとすれば、君が、この国の国民であるように、俺も、この国の国民だ、と言うことかな」

例えポーズだけだとしても、龍麻が些少の言葉なら交わす気になったらしいのに嘘はないと踏んだのだろう、男は、「手短に」と言う彼の訴えを無視するように、敢えて持って回った言い方を選び、龍麻の神経を苛立たせつつも、意味深長なことを言う。

「は? そりゃ、俺もそっちも日本人なんだから、国籍捨てない限りは……、って、もしかして……──

男の言う意味が直ちには理解出来ず、何を言っているのだろうと、龍麻は思い切り顔を顰めたけれど、厄介な相手ではなく、変人と関わっちゃったかな、と思い掛けた直後、男は、自分は『国家の者』と言いたいのかも知れない、と考え直した。

この国に、『黄龍の器』に敢えて接触してくるような物騒な機関が存在しているのかどうかは、判らなかったけれど。

──まあ、その辺りのことは、今はどうでもいいじゃないか。多分、君のその想像は、裏切られないとは思うけれどもね」

龍麻が、「今度、御門に訊いてみよう。心当たりあるようだったら、何とかしてくれって押し付けよう」と、他力本願なことを考えているとは知らず、若干だけ機嫌を良くした風になった男は、更に勿体ぶった言い回しを始め、

「そういうの、ウザったいから止めて貰える? もう少し、単刀直入にどうぞ、『お国の手先』さん」

その所為で、龍麻の声のトーンは少々低くなる。

「…………判った。では、本題を。──緋勇龍麻君。君と交渉がしたい」

「交渉?」

「君は、『黄龍の器』であり、今生の黄龍でもある。そしてそれは、言い方を変えれば、君は稀有な才能を持っている存在、と言うことでもある。その『才能』を以て、我々に協力して貰えないだろうか」

「…………才能だとか協力だとか言われても。って言うか、その前に一つ訊きたいんだけど。それは、本当に協力? それとも、協力してくれないと……、って脅し?」

「協力は協力だ。それ以上でもそれ以下でもない。脅迫などと言う、野蛮な方法を取るつもりはないな。少なくとも今は」

「ええと。それを、脅迫って言うと思うんだけど、気の所為?」

「気の所為と言うよりは、認識の問題だろう。勿論、『才能』に見合うだけの報酬の用意もある。……どうだろう。悪い話ではないと思うが。国家公務員になる、とでも思ってくれても構わない」

『黄龍の器』と言えども、一見は何処にでもいる青年でしかない眼前の彼の声のトーンが下がっても、どんどんと目が据わっていっても、彼の機嫌が下降の一途を辿っていると思い至らぬのか、男は一層饒舌になった。

「お断り」

が、龍麻は、簡潔に男の誘いを一蹴する。

「……何故? 何の魅力も感じないかい? 君は『黄龍の器』だ。その気になれば、名誉でも富でも、思いのままの筈だ」

「…………お金に興味が無いと言ったら、それは嘘になるけれど。俺は、余分なモノは要らない。普通に暮らしていけるだけで充分」

彼の答えに、男は、奇異な物を見る目付きをし、甘言を続けたが、龍麻は又も、きっぱりと言い切った。

「成程……。……君には、欲がないようだ。金や名誉は疎か、世界だろうと歴史だろうと、君には簡単に手に入れられると言うのに」

「お金も名誉も、世界も歴史も、俺には要らない。……何度も、同じこと言わせないでくれる?」

それでも、男の声音には、誘うような甘さと、食い下がる響きが籠ったけれども、馬鹿げた話はこれで終いだと、龍麻は歩き出し、男の脇をすり抜けた。

「……どうにも、君の機嫌を損ねてしまったようだから、今日の処は引き下がるしかないようだ。でも、参考の為に聞かせて貰いたい。君は、どんなことになら興味を持つのかな?」

「……多分、だけれど。貴方には、絶対に理解出来ないこと」

たった今ままで言葉を交わしていたのが嘘のように、己を無視し、新宿駅西口へと続く道を辿り始めた龍麻の背へ、男は疑問をぶつけた。

問う声に、一瞬のみ振り返って、それは綺麗に笑みながら、龍麻は、答えとは言えない答えを告げた。

きちんとしたそれを返しても差し支えはなかったが、教えてやった処で、自身の言葉通り、男に理解出来るとは思えなかった。

────京一以外に、京一と送る日々以外に、到底興味など持てはしないし、京一以外のモノなど要らない、なんて。

何も要らない。

富も名誉も権力も、世界も歴史も。

欲しいのは、蓬莱寺京一、唯一人。

何ものにも代え難い彼と、彼と共に送る何ものにも代え難い日々と人生を手にしている、現在いまこそが望みだ。

────遠くなって行く、名も知らぬ男の気配を背中に感じながら、頭の片隅で歌うように囁いて、龍麻は、足を早めた。