「…………耳を貸してやるくらいなら」
威張りたいのを我慢している風に笑み続ける九龍の面を、暫し眺めてから。
ソファの背凭れに身を預け直しつつ、阿門は頷き掛けた。
「阿門。未だ早い。ここで折れたら、九ちゃんが付け上がる」
だが、甲太郎が、それに待ったを掛けた。
「付け上がるって、甲ちゃーん……」
「事実だろ。それに、それだけじゃ未だ納得出来ない。──お前の立てた仮説に、頷いてやれないことはない。確かに、無闇に『出入り口』を探すよりは、可能性は高いだろう。だがな。一〇〇%は無理でも、九〇%がお前の説通りだったとしても。肝心の『出入り口』は、駐屯地、若しくは演習場の何処にあるってんだ? 富士駐屯地と東富士演習場がどれだけの広さなのか、判ってるか? 九ちゃん」
「判ってるってばさ。……だからね。夕べ、寝る前に、ちょーーーっとリサーチ掛けてみたんだよねー」
「リサーチ?」
「うん。砲介に、メールしてみたんだ」
「……墨木? ……ああ、自衛隊に入ったからか?」
「そーゆーこと。だから、砲介に連絡した訳だ。あの辺り絡みで、ミステリー、な話を聞いたことあるなら教えてくれー! って。ほしたらね、朝ご飯の一寸前くらいに返事が来て、一ヶ所、心当たりがあるー、って」
彼の異議申し立てに、その辺も何とか! と九龍は再び笑んだ。
「………………どんな」
「砲介の先輩が、去年の夏に、一寸した怪談って話してくれたことで、砲介自身は行ったことないし、先輩も同様で、噂の場所に実際に行ったことある人は、もしかしたらいないんじゃないか、ってことだったんだけど。東富士演習場の西──要するに富士山側の端っこに、小さな沼があるんだと。で、その、小さいけど底なしらしい沼の周りには、一本のハルニレの巨木と沢山の山桜があって。春って言うには到底早い、未だ雪が降ってもおかしくない頃から、次の冬の雪が降る頃まで、その桜、延々咲いてるんだと。狂い咲きって奴? ……でもね。それこそ、びっしり、って感じで山桜が植わってて、半年以上、それだけの数の木が咲きっ放しなのに。何でか、一切、匂いがしないんだって。…………ま、それだけの話なんだけどね。砲介も、この程度で……、なんて書いてきたし、ちょっぴりだけ気持ち悪いって言うか、釈然としないって言うか、ってくらいの話でしかないんだけど。ちょーっと、アタック掛けてみてもいいかな、と。実際に行ったことある人は皆無っぽいのに、何でか場所も詳細に伝わってて、そこには近付かないようにってのが、陸上自衛隊の皆さんの、暗黙の了解らしいし」
ごそごそ、ズボンの後ろポケットから『H.A.N.T』を引き摺り出して、「砲介が、こんなに一生懸命メール打ってきてくれた!」と見せびらかしつつ、九龍は、墨木伝に知った『細やかな怪談話』を語った。
「本気で、細やかだな」
本当に微かに期待はしたのに……と、話を聞き終えた甲太郎は肩を落とす。
「……細やかでもいいじゃん。こじつけろって言うなら、もっとこじつけるし? 須走浅間神社の御祭神の一柱は木花咲耶姫佐久夜毘売で、木花咲耶姫佐久夜毘売の名前は、桜の花が咲くように美しい女性って意味で、古代の日本で桜って言えば、山桜──」
「──あー、もういい。取り敢えず黙れ。その話が必要になったら聞くし、今、それを聞いて何らかの反論をしてみた処で、お前はもう、そこに行ってみるって決めちまったんだろ? だったら、これ以上、鬱陶しい話を聞いても無駄だ。行く場所と、最低限の根拠が判っただけ、マシだってことにしといてやる」
だが、彼には、遺憾ながら、九龍が意思を固めてしまっているのが悟れたので、溜息と共に諦めを口にした。
「うんっ! 折れてくれて有り難う、甲ちゃん! ……帝等は?」
「俺は、手を貸すだけだ。お前が良ければそれでいい。もう、何を言っても始まらぬだろう?」
「えへへー。サンキュー!」
渋々の承諾ではあったけれど、甲太郎の許可を得た九龍はパッと顔を輝かせて、今度は阿門へ熱烈視線を注ぎ、苦笑しつつ、文句はない、と今度は確かに頷いてくれた彼にも、笑顔を振り撒いた。
「じゃあ、そうと決まれば、早速準備始めないと! 目的地にあるのは沼らしいから、潜水器具とかも担いでった方が無難だと思う訳で、その辺も手に入れたり何だりってしなきゃなんないから、下手したら、出発するまで四、五日は掛かっちゃうかも知れないけど、二人共、直ぐにでも出発出来るようにしといてくれると嬉しいな」
そうして彼は、弾むような声で言いながら、探索地を特定する為の資料を仕舞いつつ、代わりに、準備の為の資料を何処より引き摺り出して、これが要る、あれが要る、とブツブツ始め、
「……九龍様。一寸宜しいですか」
問答無用で九龍に突き付けられた資料達を、やれやれ……、と受け取って眺め始めた甲太郎と阿門の二人に何やら気を遣いながら、千貫が、彼を小声で呼んだ。
「はい? 何ですか? 千貫さん」
失礼ながら、と手招かれ、執事殿の傍へ九龍は寄る。
「先程のお話の、探索ですが。九龍様達のご迷惑でなければ、私もお供させて頂いても宜しゅうございますか?」
「……え? 千貫さんが? ………………何でです?」
「過保護なことを言うようですが、坊ちゃまのことが心配で。……と言う答えではいけませんか」
「ああ、成程! ……って言いたい処ですけど駄目です。千貫さん、そういうタイプの執事さんじゃないじゃないですか。帝等が何処で何しても、帝等自身が決めたことなら、黙って帰りを待ってる人でしょー? ……理由は、何です?」
「…………お笑いにならずにお聞き頂きたいのですが。虫の知らせのようなものがあるのです。坊ちゃまに何か、と言うのではなく、皆様に何か、と言うような。……本当に、これは、唯の予感でございますが、多分、今回のお仕事は、少しでも手が多い方が宜しゅうございますよ」
「ふむ………………。……判りました。でも、返事は一寸待って貰えます? 検討させて頂きますんで」
ひそひそと、何処か固い表情の千貫にそんなことを乞われ、悩みつつ、九龍は答えを保留した。
具体的には知らないが、何やら特殊な過去を持っている様子の、けれど、こうして生き延びている彼の予感や虫の知らせは、決して馬鹿に出来ない、と考えはしたのだが、甲太郎は兎も角、阿門はどう思うか、とも考えたので。
「はい。宜しくお願い致します」
だから、保留と言うことで、と九龍は頭を下げ、千貫も又、それで構わない、と頭を下げ返した。
応接間の片隅で、九龍と千貫が、そんな話を交わしていた時。
押し付けられた資料の束に目を通し始めた甲太郎は、サマージャケットの内ポケットから、小さなケースを取り出した。
それはピルケースで、ん? と思った阿門がケースと自身を見比べたのにも気付かず、彼は、指先で弾くように開けたそれの中から、白い錠剤を二つ程、掌に落とし、口の中に放り込んで、そのまま噛み砕いてしまった。
「…………皆守。何の薬かは知らないが、そのように服用しない方がいいのではないか?」
「ん? ……ああ。一々、水を一緒にってのが面倒臭くて、つい、な」
「面倒臭く思う程、頻繁に飲んでいるのか? 何の薬だ」
「大したことじゃない。只の頭痛薬だ。去年の秋くらいから、稀に頭痛がするようになって、最近は、度々になっちまってな。それで。多分、偏頭痛か何かだろ」
「大丈夫なのか?」
「心配してくれるのは有り難いが、本当に、どうってことない。昔は、頭痛なんて起こしたことがなかったから、俺自身も驚いてるが、所詮、頭痛だ」
「なら、良いが…………」
褒められない薬の飲み方をした甲太郎に、阿門は嗜めるように言って、控え目に彼を案じたが、甲太郎自身は、乱暴な薬の飲み方も、ここ最近の持病も、取り立てて気にしていない風で。
「あっ! 甲ちゃん、まーた、水なしで薬飲んだな? そういう飲み方すると、食道とか胃とかヤるんだぞ。潰瘍になっても知らないよ? ここの処、頭痛の回数増えてるし」
もう少し強く言った方がいいのだろうかと、阿門が躊躇っていたら、千貫とのヒソヒソ話を終えた九龍が戻って来て、むきー! と甲太郎を叱り出した。
「言われなくとも、それくらい俺にも判ってる。今度から気を付けるから」
けれども甲太郎は、恋人のお叱りもさらっと躱して、資料に没頭してしまった。