季節柄の所為もあるだろう、雑草が深く生い茂る、灯り一つ届かぬ細い脇道を長らく伝っていた九龍達の視界が、突然開けた。
そこは既に、演習場の中だった。
「砲介が教えてくれた場所は、ここから、一キロちょい西なんだよね」
「行けるか? 警備の巡回の時間までは、調べが付かなかったのに」
「うん。やっぱり砲介の話だと、演習場の深夜帯の警備は、ジープで見廻るのが定番らしいから、それは、音とヘッドライトで気付ける筈。監視カメラなんかも何処かにはあるだろうけど、駐屯地の施設の方なら兎も角、この辺なら数える程だと思う。周囲に鉄柱も柵もないような所には、カメラだって設置の仕様がないだろうしね。それに、『噂の場所』には、自衛隊の皆さんも寄り付かないらしいから、そこまで辿り着ければ自衛隊さんとの勝負は勝ったも同然だし、一応、色々見越して、咲重ちゃんに、特製『記憶補正付き・催眠効果ばっちり香水』作って貰ったから大丈夫。──行こう」
這う程に身を伏せ、シン……と静まり返った、暗視ゴーグル越しに見遣っても、見渡す限り何も無い広大な原野の様子を窺いながら、一先ずの安全と警備対策を九龍と甲太郎は確認し、真後ろの阿門と千貫を促す。
「双樹の『香り』は確かに効くが……葉佩。今、風下は西だが? 何処で使うにしても、俺達が目指す方角にも香りが流れるが、それはどうするのだ」
「ふふふふふ。まーかせて。ちゃーんと、咲重ちゃんに『お休み香水』の効果打ち消すのも拵えて貰ったから。…………処でさ、帝等」
「何だ」
「二人共、何時まで『双樹』に『阿門様』な訳? そう遠くない未来に、帝等と咲重ちゃんは、お婿さんとお嫁さんになるんじゃないかなー? って噂、聞いたんだけど」
夜陰に上手く溶け込む為に、真夏だと言うのに、漆黒色の、袖も裾も長い衣装で彼等は全身を覆っているので、巡回のジープが近付いて来ない限り発見されることはなかろうと、足早に原野を進んでいた最中。
阿門の疑問に威張りながら答えた九龍が、調子づいて与太話を始めた。
「……………………誰が、そんな噂を?」
「ん? 凍也。凍也が、前に──」
「──九ちゃん。黙れ。余計なこと言うんじゃない」
もしも警備の者達に発見されたら、どうなるかも判らないと言うのに、九龍に、弾むような声で、お婿さんにお嫁さん、などと言われ、阿門は何処となく口籠り、夷澤がそんなことを言っていたんだと、更に声弾ませた九龍の後頭部を、友の、「何とかして欲しい」との無言の訴えを感じ取った甲太郎は、ガンっ! とぶん殴る。
「痛いよ、甲ちゃん」
「真面目にやれと、何度言えば判るんだ、お前は」
「真面目にやってるってばさ。でも、友達が結婚するかも知れないって話も大事っしょ?」
「だとしても、それは、今、この状況で、語り合うことじゃないだろうがっ」
「えー、いいじゃんか、別に。俺達以外に誰もいないんだし」
「九龍様。他人の恋路には、口を挟まぬ方が宜しゅうございます。それとも九龍様は、ご自身のことを、根掘り葉掘りされるのがお好きでございますか?」
「………………すいません。御免なさい。俺も、根掘り葉掘りはされたくないです。反省してます」
甲太郎に乱暴を働かれても、全く堪えなかった九龍だったが、彼も、己のことをああだこうだ言われるのは嫌だったのだろう、『様々な事情』の何処から何処までを弁えているのか見当が付かない千貫に、真後ろから囁かれ、やっと口を噤み、足の速度を上げた。
それより十分程の間は、誰もが溜息一つ洩らさず、ひたすら沈黙を保って原野を駆けた。
彼等の足を留める不審な物も見当たらず、警備のジープとも行き会わず、このまま何事もなく目的の場所に辿り着けそうな気配が、一行の間に漂い始めたけれど。
「……あ」
突然、九龍が駆けていた足を止めた。
「九ちゃん?」
「………………御免。何か踏んだ」
「踏んだ? 石か何かじゃないのか」
「やー、それが。踏んだ途端、ポコって沈んだから、多分、何かの警報装置? 幾ら何でも地雷はないだろうから」
「馬鹿! 暢気にそんなこと言ってる場合かっ!」
右足を一歩踏み出した中途半端な姿勢のままピタっと止まり、首だけを振り返らせて、ドジ踏んだかも? と誤摩化し笑いをした九龍の襟首を、雄叫びながら慌てて引っ掴んだ甲太郎は、阿門と千貫を促しつつ、視界に入った茂み目指して走った。
滑り込む風に背の高い草の中に突っ込んで、低く身を伏せると同時に、四輪駆動車のエンジン音が辺りに響き、目映いヘッドライトが辺りを照らした。
夜陰に目映さを齎した車は、丁度、九龍が某かを踏み付けた付近で停車し、中からは、警備兵が二、三人降り立って、
「英語……?」
「あれ? 在日米軍……?」
M4E2カービン──U.S.アーミーに採用されている突撃銃を構えながら、周囲の警戒を始めた男達の風体と言語に、甲太郎と九龍は顔を見合わす。
「何で、こんな所に米軍なんかいるんだ?」
「さあ……。……って、あ、忘れてた。富士駐屯地って、米軍施設あるんだった。うわー、ちょーっと面倒な人達出て来ちゃったなー」
「……頼むから忘れるな、そういうことを…………」
「御免ってば。……んーーーー……。仕方無いなあ、そう簡単にはお帰りになってくれそうもない気配だから、ここらで、咲重ちゃんの香水に出撃願うとしましょうかね」
不審者の侵入を疑い、辺りを探し続ける兵士達は、どう見ても自衛隊員でなく在日米軍兵で、どうして? と首を傾げた甲太郎や阿門に、九龍は、彼等の存在を失念していたことを白状しつつ、アサルトベストの数多あるポケットの一つより、咲重から貰った二つの小瓶を取り出し、一つは自ら握り締め、一つは甲太郎へと渡した。
「あ、そうだ。甲ちゃん、咲重ちゃんから伝言」
「どんな?」
「カレーとラベンダー以外の匂いも判るようになってないと、『お休み香水』の対策用の方を嗅いでも寝ちゃうけど、大丈夫か? って。……あ、でも、だとすると、『お休み香水』嗅いでも判んないから寝ないのかな」
「……あの女狐の冗談を真に受けて、馬鹿正直に伝えなくていい。いい加減、そんなことある訳ないと学習しろ。──ほら。下らないこと言ってないで、さっさとしろよ」
「へーい」
キュポンっ! と瓶の栓を抜きながら、「って咲重ちゃんが言ってたけど、甲ちゃん寝ない?」と九龍は真顔で尋ね、だから甲太郎は、もう蹴り飛ばす気力も生まれない、と疲れた風に肩を落としつつ右手を振った。
それを合図に、九龍の手から小瓶は離れ、放物線を描いて放り投げられたそれが、彼等の潜む茂みへと近付きつつあった兵士達の足下に転がると同時に、ふわりと辺りを甘い香りで包むより一瞬だけ早く、甲太郎は九龍から受け取った小瓶の蓋を開いた。
己達全員に頭から降り掛かるように中身をぶちまければ、兵士達に纏わり付いた香りとは全く違う、ツンとする匂いが彼等自身から立ち上って、音立てて倒れて行く米兵達を横目で見ながら、彼等は一様に咽せる。
「甲ちゃん、掛け過ぎ……」
「効かないよりマシだろ」
「咲重ちゃん特製なんだから、一寸撒くだけで充分過ぎるってば……。匂いに敏感でない甲ちゃんと一緒にしないで貰えますかー?」
「だからっ。そんなことはないと言ってるだろうがっっ!」
確かに、目的は充分過ぎなまでに果たしているけれど、これはやり過ぎ、と甲太郎を睨みつつ九龍は嫌味を垂れて、お約束通り、蹴り飛ばされてから。
「さてっと。漫才はこれくらいにして、今の内!」
「誰の所為だ、馬鹿九龍っ!」
段々、彼等の何時ものノリに付いて来られなくなったらしく、無言を貫き通すようになった阿門と千貫の、物言いたげな、けれど何処か冷たい視線が突き刺さるのを感じながら、九龍は茂みから立ち上がった。