警報装置らしき何やらを九龍が踏んでしまって以降は邪魔も入らず、何処か拍子抜けするような感を覚えつつ原野を進んだ一行は、辛うじて、深夜十二時台の内に東富士演習場の西の外れに到着した。

「ふーん……。ここが噂の場所かあ」

その日は新月期に当たっていて、辺りを照らす月光はなく、瞬く星達のみが光源の、肉眼では覚束無くしか見えない『目的地』を、九龍は、ベルトからぶら下げていたマグライトで照らし出す。

────光を当てたそこには、墨木がメールに綴ってくれた噂通りの景色が広がっていた。

だだっ広い原野から、ポコリと半円状に飛び出た小さな広場のような場所の直中には、雑草に取り囲まれた、大凡、直径十メートル程の、淵がぐにゃぐにゃと歪んだ形をしている小さな沼らしきものがあり、周辺を、ひろょっとした幹の山桜が幾重にも取り囲んでいた。

そして、その広場のような場所の最奥には、山桜とは違い、数百年以上の歳月を経ている風に映る、立派な、枝も葉も生き生きと生い茂らせているハルニレの古木があった。

……今、季節は真夏で、東京よりは遥かに涼しい富士山の麓に位置するそこも、深夜と言う時刻を鑑みても尚、夏に相応しい気温であるのに、何処までも噂通り、山桜の木は全て、満開の花を咲かせていた。

九龍の手に握られたマグライトの、闇を円形に切り抜いたような光の輪の中で、山桜の枝はそよ風に揺すられ、花びらをも散らし。

けれど、漂って然るべき筈の花の匂いも木の香りも、鼻孔をくすぐりもせず。

「ここで百物語大会とかやったら、盛り上がりそうだなあ」

ライトの光を動かしつつ辺りを見回しながら、クン……、と九龍は鼻を鳴らした。

「趣味の悪い発想だな、九ちゃん」

「そういうことが好きな者達には、確かに良い場所かも知れないが……、何となく、ここは人工的な雰囲気がする」

彼に倣い、『歪』な辺りを見回し、甲太郎は眉を顰めて、阿門はあからさまに不快気な表情を拵える。

「坊ちゃまの仰るような意味で、気持ちの悪い場所だと私も思います」

そして千貫は、阿門の言い分に同調しながら『沼』の淵に片膝を付き、暫し、じっと見下ろしてから九龍を呼んだ。

「九龍様。これは、沼ではありません。流砂ですな」

「流砂? どれ。……あ、ホントだ」

「この暗さでこの雰囲気ですから、泥沼にしか見えませんが、確かに流砂です。踏み込まれぬ方が宜しいかと」

これは泥沼ではなく流砂だと告げる千貫の言葉を確かめるように、九龍は一歩、泥水の中に踏み出し感触を確かめ、

「んーーーー。ちょーっと、予想が外れちゃったなあ。これは、どう考えてもリアルだもんなあ」

ずぼっと踏み込んだ足を引き戻し、腕組みを始めた。

「当てが外れたか? 九ちゃん?」

「うん。外れたっぽい。砲介がくれたメール読んだ時から、噂のこの風景は、フォログラフィなんじゃないかって予想してたんだよね。立体映像みたいな系統の仕掛けなら、匂いがなくて当たり前っしょ? 山桜が狂い咲いてるのも、天御子達が仕掛けた装置が経年劣化しちゃったか何かで、映像を切り替えるタイマーみたいな物が故障した所為って考えると筋通るし。だから、沼も映像かも知れないって疑ってた訳ですよ。この景色の中に地下の龍脈への入り口を隠すとしたら、俺だったら沼の中にする。こーんな汚い沼──ってか、流砂の中に踏み込もうって考える人間、早々はいないからね。危険だし。でも、『これ』が映像じゃなくって本物となるとー……。……さーて、入り口は何処だろう」

「頭を捻るのは悪かないが、ここには入り口がないって可能性を忘れるなよ」

──陸上自衛隊の皆さんの間では、『一寸した怪談話』として知れ渡っているこの場所のこの風景は、龍脈への入り口を隠す為に、天御子達が施した何らかの細工が生み出している立体映像の類いではないか、と想像していたのに、どうやらそうではないらしい、と拗ねたように唇を尖らせている九龍を、甲太郎は、からかう風にした。

彼とて、相棒と似たり寄ったりの想像を巡らせていたのは事実だが、そんなに単純な話でもないだろう、とも思っていたから。

「その可能性考えるのは最後! 人のことおちょくってないで、甲ちゃんも一緒に頭脳労働するっ!」

と、己へ向けて放たれた、甲太郎のあからさまに嫌味ったらしかった声音や口調に、九龍がキッ! と目を吊り上げ、サボってないで仕事しろ! と喚き出したので。

「頭脳労働も何も。この景色の中にまやかしが混ざってるかどうかを確かめるには、頭よりも体を使った方が早い」

大仰に肩を竦めると、甲太郎は、立ち並ぶ山桜に近付いて、思い切り蹴り飛ばす。

……途端、『人外』の技を有する彼に蹴られた木の幹は、メキッ……と嫌な音を立てつつ一部が抉れ、同じように蹴られたハルニレの木も、山桜と同様の運命を辿った。

「…………ありゃ。本物?」

「確実に」

「うーーーーん………………。……だとすると。流砂ん中ってことかなあ。ここに入り口があるんなら、の話だけど。覚悟決めて潜って探せってことかなあ。命の保証ないけど。でもなあ…………」

見せ付けられた結果に、九龍は一層腕組みを深くして、ウンウンと唸りながら知恵を絞り始め、これはもう、出直した方がいいのではないかと、彼以外の残り三名が確信せざるを得なくなる程の長い間、一人、何やらブツブツと呟き続けていたが。

「……十九世紀末の霧の都の、ベーカー街221Bにお住まいだった、世界で一番有名な探偵さんのお言葉を借りるなら。『それが如何に有り得そうになくとも、不可能なものを取り除いた後に残ったものは真実』だそうだから。あながち、この考えも間違ってないかも。あくまでも、『ここ』を拵えたのも天御子達だ、って仮定に基づいての話だけど」

やがて彼は、ふむ、と頷いた。

「考えとは、どのような考えだ?」

持って回ったその言い回しに、甲太郎は、又始まった……、と呆れたように肩を竦め、アロマのパイプを引き摺り出し、勝手に寛ぎ始めてしまったけれども、阿門は興味を惹かれた様子で、耳を貸す態度を取った。

「考えって程のものでもないんだけどね。それに、今も言ったみたいに、『ここ』を拵えたのは天御子達、って仮定の上での話だけどもね。──沼も桜もハルニレの木も、確かに本物のようだけど。やっぱり、『これ』は不自然っしょ? 木が、確かに『木』なら。ハルニレは兎も角、これだけ群生してる山桜が全く香らないってのも、この季節に満開ってのも有り得ない」

「……そうだな。葉佩、お前の言う通りだが。それが?」

「で・も。俺達の目の前に植わってるのは、何処からどう見ても山桜にハルニレ。甲ちゃんが蹴っ飛ばした結果、匂いなんかなくて当然の立体映像でもないって判った。……まあ? 俺達の目には山桜やハルニレにしか見えない、地球外生命体ですかー? ってな可能性まで疑ってみたくなる植物なのかも知れないし、蹴っ飛ばされても手応えさえ返す、未知すら通り越した謎過ぎるテクノロジーが拵えてる立体映像なのかも知れないけど? 幾ら天御子達が酔狂でも、地球外生命体? な植物、ここに植える必要性がないし、蹴っ飛ばされて抉られた一部が音立てて転がる立体映像ってのは、幾ら何でも現実的じゃないと思うんだ。────と、すると。残る可能性──俺に考え付く可能性は一つ。『ここ』に植わってる植物は、遺伝子操作されてるって可能性」

「………………遺伝子操作、か」

「うん。その辺のことは、連中の得意分野っしょ? 連中になら、この程度の物拵えるのは、化人拵えるよりも簡単の筈。匂いがしなくて、一年の半分以上咲きっ放しの桜の木くらい、余裕なんでないかい?」

「だとしても。九ちゃん、その理由は? 何で、そんなことをする必要がある?」

九龍が阿門相手にしていた、『考えと言う程のものでもない』話が、そこに辿り着いた時。

ラベンダーの香りを盛大に撒き散らし中の甲太郎が口を挟んだ。

「人間が近付く確率が減るから。自然の摂理に反するモノを前にしたら、やっぱり、人は恐怖すると思うんだ。どんなに剛胆な人だって、気味が悪いくらいのことは思うっしょ、普通。兄さん達や俺達みたいに、『有り得ないことが当たり前』みたいな人生送ってる人は、早々はいないしねー。…………あ、そうか。それでも、猫をも殺す好奇心って奴で、こういう場所に近付く人間は絶対にいるから、沼も木も本物なんだ。成程」

彼の疑問に、その理由は多分、至極単純、と答えてから、「やっぱり入り口は、ここだと思うんだけどなー……」と呟きつつも九龍は、そこから先の考えに詰まってしまった風に、再びの唸り声を上げながら、月のない天を仰いだ。