「………………おお」
下町の銭湯の脱衣所で、瓶牛乳か何かを煽っているかの如く、腰に両手を当てながら、此度も、随分と長い間、九龍は空を見遣っていた。
が、その内、あーー……? と妙な声を洩らしつつ、ぱちぱちと激しい瞬きを始め、
「みーつーけーたー!」
ヒャッホー! と、喜びの雄叫びを彼は放つ。
「……何処に? 何を?」
「それらしいものなんて、何処にもないぞ?」
「そのようですな……」
宙を見詰めたまま、一人はしゃぎ始めた九龍の様子に、彼は何かを見付けたのだろうと、甲太郎達も、彼が見遣り続ける宙──ハルニレの木の天辺辺りの空間に目を凝らしてみたが、宙は、やはり唯の宙で、彼等は一様に訝しんだ。
「よーーー……く見てれば皆にも判るって。……ほれ。あそこ。暫く見詰めててみ? あ、因みに、ちゃんと『その周り』と比べっこしながら見ること」
己が指差す辺りを見詰めるのは止めないながらも、『何も無い場所に何が有る?』と、口々に告げる三人に、九龍は、えへら笑いを浮かべつつ、周囲と見比べろ、と言って、
「ん? あれは……」
「……ああ、成程」
「ほう。そういうことでしたか」
言われた通りに視線を走らせた彼等は、九龍の言わんとしていることに気付いた。
「えへへー。判ったっしょ? 今夜はたまたま雲があったから気付けたんだろうけど、ハルニレの天辺近くだけ、流れる雲の形がおかしいんだよ。──雲の形が周りと違う。あそこだけ溶け込んでない。それに。ずっと見てると判るんだけど、見覚えのある形した雲が、何度も通るんだ」
「…………成程な。『ここ』の全部が全部じゃないが、九ちゃんの最初の考え通り、この景色の一部は、フォログラフィが作り出してる偽物ってことか」
「うん。多分、帝等や千貫さんが感じたみたいに、『ここ』は、人工的な物だけで構成されてる場所なんだよ。人間が不気味がって近付かないように遺伝子操作された植物と、フォログラフィで作り出された空で構成されてる人工の場所。確証はないけど、泥沼に見せ掛けた流砂も作り物なんじゃないかな。どんな仕掛けなのかは何処までも謎だけど、漁ったら、立体映像拵えてる装置か何か出て来ると思う。流砂って、実は人間が浮けるくらい比重が高いから、或る程度重量計算された装置なら、中に浮かんでられるかも知れない。──龍脈は地中を通る流れだから、入り口も地面に接してる筈って考えるのが妥当っしょ? 俺も、そうやって思い込んでたしね。でも、『ここの入り口』は、その盲点を突いてるんだよ。天御子達が拵えた入り口なのか、『そもそもから宙に入り口があった』から、連中がこんな手段で隠したのかは判らないけど」
己が見付けたように、宙にある不自然な空間を見付けた甲太郎達に、「入り口があるのは、きっとあそこ」と言い出した九龍は、何故、それを入り口だと思うのかの理由を語って、
「と、言う訳でー。一〇〇%の確証はないけど、入り口っぽい所は見付かったんで、後はトライしてみるのみ! 挑むぞ、木登り!」
改めてしっかりと装備を身に着け直すと、一人、ハルニレの木に走り寄って行った。
「そりゃ、登って登れないことはないだろうが……」
うおりゃーー! ……と、気合い故なのか覚悟故なのかの判別付かない奇声を放ちつつ、枝の一つに飛び付いた九龍を呆れ顔で眺め、甲太郎は、古木の梢の上を見上げる。
────ハルニレは、成長すると、高さが二五メートル前後に達する高木で、三〇メートルを越えるものも少なくない。
彼等の眼前の古木も、その例に洩れてはいなかった。
それも又──九龍の想像通りならばの話だが──、天御子達に遺伝子操作の類いでも施されているのか、天頂近くの枝までも逞し過ぎる程に育っていたから、成人男性が全体重を掛けてぶら下がり、そして揺すっても折れることはないだろうが…………────。
「訊かなくても答えなんざ判っちゃいるが、一応、訊いとく。……九ちゃん。お前、それに登ってどうするつもりだ?」
登り切った後、この馬鹿は、想像通りのことを仕出かすつもりなのだろうか、と思いながら、ひょいひょい木に登って行く九龍へ、甲太郎は声を張り上げた。
「へ? 入り口に入るに決まってるっしょ」
「……だから、どうやって」
「…………? 一番高い所にある枝から、入り口っぽい所目掛けてダイブするだけだけど……、って、あ、判った。甲ちゃん、迂闊なことするなって、お小言垂れようとしてる? 大丈夫だって、俺だって風邪は引く程度の馬鹿ですぅ。ちゃんと、ロープ握って跳ぶから無問題!」
「そういう問題でもない気がするんだが、ま、九ちゃんに言っても始まらないか…………」
もしも、『そこ』に入り口があるとの仮定が間違っていたら、華麗にダイブした次の瞬間には墜落死だと忠告しようとした甲太郎を制し、「一応は考えてるから!」と、まるで猿のようにハルニレの天辺を目指しながら九龍は言って、だから、これはもう何を言ってみても無駄だなと、甲太郎は深い溜息を吐いてから、古木の根元に歩を進めた。
「……よ……っと……。おし、準備万端! ──んじゃ、ちょっくら試してみるとしますかね」
万が一、九龍が転げ落ちて来たとしても、一応は何とかなる位置取りをした甲太郎が、渋い顔しつつ真上を見上げた丁度その時、既に、最も空に近い枝まで辿り着いてた九龍は、幹に混鋼ロープを結び終えており。
誰かが何かを言うよりも早く、「せーーの!」と、入り口が隠されていると思しき中空目掛けて、ロープを握り締めたまま、目一杯枝を蹴った。
………………結果。
彼の思惑は見事に的中し、『そこ』に触れた途端、イリュージョンの如く彼の姿は掻き消える。
「…………皆守」
「阿門? 何だ?」
「あのクリスマス・イヴの夜から、もう三年近くが経つから。お前は葉佩と二人、望むように、思うまま、生きていると思っていたのだが。案外、要らぬ苦労ばかりをしているのだな」
「ああ。あの馬鹿の所為でな。本当に、毎日毎日、どうしようもなく馬鹿馬鹿しい苦労ばっかり背負い込む羽目になってる」
────九龍の姿が宙に消えて、二、三分後。
じっと虚空を見詰めていた阿門が、ボソッと洩らした心底よりの感想に、甲太郎は大袈裟な素振りで肩を竦めた。
「あんな風に跳べば脱臼をするかも知れないとか、『向こう側』にあるかも知れぬ何かに激突するのではとか、葉佩は考えないのか?」
「考えてる訳ないだろ。あいつは、風邪は引く程度の馬鹿で、思い込んだら俺の言うことだって聞く耳を持たない。挙げ句、元々から成せば成るってタイプなのに、京一さんや龍麻さん達の『教育の賜物』で、最近益々、『成せば成る思考』に磨きが掛かってるしな」
「………………本当に、苦労しているな、皆守」
「しみじみ言うな。俺の毎日と人生に、どうしようもない空しさを感じちまう」
何時しか、己と肩を並べる風に傍らに立っていた阿門と、揃って空を見上げたまま甲太郎は、そこはかとない侘しさの漂う会話を交わし、もう一度、深い溜息を付いた。
その時、彼が吐いた溜息は、己の『運命の相手』の馬鹿さ加減を嘆く溜息だった。
故に、吐き出された息に込められた意味に気付いた阿門は、何処となく同情している風に、無言の内に彼の肩を叩いたが。
「……ま、それでも。阿門、お前の想像通り、望むように、思うまま、生きてるのは確かだ」
だから余計に、背負い込まされる苦労が腹立たしいと言いながら、困ったように笑って、甲太郎は、九龍と共に『入り口』の向こうへ消えたロープが合図代わりに揺すられたのを見届けてから、ハルニレの枝に手を掛けた。