互い、言葉でそれを確かめることはなかったが、暗黙の内に、大分軽くなってきたスプレー缶の蛍光塗料が尽きた時をデッドラインにするのが妥当だろうと定めて、九龍と甲太郎の二人は尚も先を急いだ。

千貫や阿門と分かれてより、時間にして数十分程進んだ頃には、何時も何時も探索が上手くいくとは限らぬし、今回限りで何が何でも達成しなくてはならぬ仕事をしているのではないのだから、そういう意味での『長期戦』になるのも止むなしだ、と半ば頭も切り替え終わっていた。

……だが、今回は見切りを付けた方が良さそうだ、と二人揃って思い定めた直後、突然、彼等の視界は開けた。

辺りを覆う『薄闇』も、ワントーン程明るくなって、風景も一層クリアになって。

思わず二人は立ち止まり、きょろっと辺りに目を走らせる。

「…………お?」

「念願の終点か?」

「さーて、どうかね。確かに終点っぽい雰囲気だけど、溶岩層は未だ未だ遠そうだしなあ……」

「そんな所が終点だったら、到底、辿り着けないだろうが、馬鹿」

────彼等の前に現れた景色、それは、鍾乳洞を彷彿とさせる物だった。

この辺りはカルスト地形ではないから、鍾乳洞では有り得なかろうけれど、見た目はとてもよく似ており、二人が立ち止まった所より急激に細くなり、人一人が通れる程度の幅しかなくなっている路は、その両側に広がる巨大な水溜まりに浮かんでいるかの如くで、成人男性の腰が浸かる程度の深さはあるだろう水溜まりの水面に浮かぶ、細長い橋と映る路の先は、水面より計って数メートル程の高さを持つ、小さな丘のようになっていた。

「単なる通過点かな?」

「行ってみりゃ判る」

「……ご尤も。でも、その前に」

水溜まりの先の、歪な半円形をしている土の盛り上がりの向こうがどうなっているのか、九龍達の位置からは窺えず、立ち止まっていても仕方無いと、甲太郎は足を動かし掛けたが、そんな彼の上着を九龍はガシッと掴みながら、もそもそと下ろしたバックパックの中身を漁り始める。

「ほれ。こんな物も持って来たんだー」

「…………お前、そんな準備までしたのか? 何時の間に?」

「昨日の夜、急に思い立って、JADEさんに調達して貰ったんだよ。『うちの店は何でも屋じゃない!』って叱られちゃったけど、ちょーっと色付けて代金払うって言ったら、JADEさん、一発で黙った。ふふふふ。──《九龍の秘宝》探しには『H.A.N.T』が使えないから、思い付いた物は出来る限り調達した方が、って思ってさ。備えあれば憂いなしってねー」

じゃーん! と効果音付きでバックパックから九龍が取り出したのは、透明なプラスチックで出来た、小さくて短い試験管状の物が幾本か突き刺さっている風な、黒くて四角い箱で、チロッと、箱の表面に書かれている何やらの単位その他を見遣った甲太郎は、それが、水質検査の為の簡易キットであると見抜いて若干眉を顰めたけれど、『H.A.N.T』の代わりになる物など、幾らあっても足りないと、九龍は口を尖らせつつ、さっさとしゃがむと水溜まりにスポイトを突っ込んで、

「お、やー…………?」

顔面全体に、そこまでする必要があるのか、と書いた甲太郎を綺麗さっぱり無視し、水溜まりの水を垂らした箱を弄り始めて数分後、九龍は不思議そうに首を捻った。

そうして、暫し何やら考え込んでからすくっと立ち上がると、細い路を半ばまで進んで、甲太郎のいる側の水面と、『丘』側の水面とを見比べ、今度は丘側の方に別のスポイトを突っ込んで、再び箱を弄った果て、

「有り得ない……」

と、彼はボソっと呟く。

「九ちゃん、どうした?」

「所詮、ポータブルな簡易水質検査キットで出した結果でしかないけど、この箱が言ってることが正しかったら、この水溜まりの中、有り得ないことになってるよ、甲ちゃん」

「有り得ないって、どういう風に」

「最初に摂った水は、純度一〇〇%の重水で、二度目に摂った水は、やっぱし純度一〇〇%の超純水、だってさ。──……有り得ない。こんなに大量の重水も超純水も、自然界に存在してるわきゃないのに、それが混ざり合いもしないで同じ水溜まりの中にあるなんて、もっと有り得ない。……凄い、此処ってやっぱり、ファンタジー過ぎる不思議空間なんだな! 俺達、生きて帰れるかな!?」

「お前な……。縁起でもないこと言ってんな」

「……だって。重水ったら、原子炉の減速材っしょ? 天然水の中には〇・〇一五%しか含まれてないんっしょ? それが、純度一〇〇%で大量に存在してて、超純水と同居してるんだよ? 有り得る? 超純水なんて、自然界には存在してない処か、現代科学でも精製出来ない挙げ句、空気に触れた瞬間、超純水じゃなくなるんだよ? 一ヶ所に留まってること、超純水は出来ないんだよ? なのに、有り得ない重水と有り得ない超純水が、混ざり合いもせず、流れもない一つの水溜まりの中で、層っぽくなってるんだよ? 有り得ないだらけじゃん。でも此処では、そんな有り得なさ過ぎることが現実に起こっちゃってるからさー。錯乱の一つもしてみたくなるって」

「だ・か・ら。簡単に錯乱なんかするんじゃない、このヘボハンターっ。確かに有り得なさ過ぎるが、それが現実な以上、錯乱したって仕方無い。その水溜まりの中が有り得なさ過ぎることになってるからって、俺達がどうにかなる訳でもないだろ。生還がどうとか、不吉なこと喚いてる暇があるなら、とっとと先に進め、激馬鹿」

サンプルを得る為、べったりしゃがみ込んだ姿勢のまま、有り得るの有り得ないのと喚き出し、感激している風な声でありながら本当に縁起でもないことまで言い出した九龍を、つかつかと歩み寄った甲太郎は、ゲシッと一発蹴り上げた。

「甲ちゃん、痛いっ! つーか危ないっ! 落ちたらどうしてくれんだ、純度百パーな重水なんかに落ちたら命の保証がないわい!」

「落ちたからって、命の保証が出来ない程たらふく重水を飲むまで、その水溜まりに浸かってるつもりか?」

「……そんなつもりはありません、はい」

「なら、問題無いだろう? ほら、とっとと立って、とっとと歩け」

「そういう問題でもない気がするんだけど、まあいいか……」

蹴られた拍子に、コロン、と水溜まりに転げ落ちそうになった九龍は、慌てて路の端を引っ掴んで身を支えつつ、ギャーギャーと苦情を叫んだけれども、甲太郎は取り合ってもくれなくて、甲ちゃんの愛は、本当に薄い……と、のの字を描きながら、渋々立ち上がろうとしたが。

「…………おんや? 誰か来るっぽい?」

「阿門か、千貫の爺さんならいいんだが……甘いか?」

片膝を立て中腰になった途端、遠くの方で、微かに足音めいた物が響いた気がして、中途半端な姿勢のまま九龍は来た方を振り返り、同じ音を聞いたのだろう、甲太郎も、肩越しに視線を流した。

彼等に把握出来ている状況より考える限り、足音の主は阿門か千貫の何方かであるのが最も可能性は高い──と二人共に思いたかった──けれど、決してそうとは言い切れぬから、揃って渋い顔をし、半分の期待と半分の諦めを込めた眼差しを路の彼方に注げば、やがて、人影らしき物が二つ程揺らぐのが判って。

「ありゃ。随分と、意表な面子だこと」

「確かに。意外ってよりは、意表だ」

徐々に、輪郭も色も露になって行く人影が誰達なのかが見定められ、慌てて立った九龍も、完全に振り返った甲太郎も、『丘』の方へと少しずつ後退り始めた。

「やー……っと追い付けたぜ。……いよぉ、お二人さん。久し振りだねぇ。元気してたかい?」

「お陰様でー。宇宙刑事もお元気そうですなー。凄く嬉しいですよー。又、銀河の彼方から、悪の宇宙人追い掛けて地球までやって来たんですかー? お仕事大変ですねー。今度は何処の宇宙人ですー? アルタイル星ですかー? プレアデス星ですかー?」

「……そんな、目一杯の棒読み口調で、懐かし過ぎる設定持ち出さなくてもいいだろ、ベイビー」

「…………うっわ! 宇宙刑事、未だに『ベイビー』とか言っちゃってるんですか? そんなん、三年前から疾っくに死語ですって。銀河連邦警察も、そーゆートコは遅れてますな」

「だからさー……。九龍君さー……」

駆ける速度で近付いて来た二つの人影──一つは鴉室で一つは劉だったそれは、急激に路が細くなり始める水溜まりの端で留まり、それはそれは明るい調子で話し掛けてきた鴉室に、九龍は、何でこんな所でこの人達と再会を果たさなきゃいけないんだと、内心ではちょっぴりだけうんざりしながら、天香時代、鴉室が使っていた子供向け特撮番組を連想させる設定を持ち出して、然りげ無い苛めに走ってから、

「処で、何でこんなトコに弦月さんまで? しかも、宇宙刑事と一緒に?」

しょぼくれた風に肩を落とした彼を放置し、劉へと顔を向けた。