数百メートルに亘る悪路を、かなりの好タイムで駆け抜けたラスト、甲太郎は、先程九龍が立っていた小さな岩を思い切り蹴って跳んだ。

そこから、混鋼ワイヤーが垂らされた亀裂までは数メートルの距離があり、且つ、そこに至る為の適当な足場もなかったが、彼の身体能力を以てすれば、その程度の動きで到達出来る距離と条件で、緩い傾斜の付いた岩壁に着地すると同時に、亀裂近くに撃ち込まれた楔を掴んで身を支えた彼は、直ちにワイヤーを引っ掴んで下へと滑り下りようとしたが。

再び、鴉室が放ったのだろう高温を帯びた熱源が迫り来たのを感じて、そのままの体勢で体を捻った。

しかし、鴉室が狙いを定めた先は甲太郎自身でなく、ワイヤーと支えである鋼鉄の楔で、指抜きのグローブを嵌めていても伝わってきた耐え切れぬ程の熱さに、無意識に楔やワイヤーから手を離してしまった彼は、咄嗟に、足下を蹴って再び跳んだ。

何もしなければ、純度一〇〇%の重水若しくは超純水を湛える水溜まりに落下する運命は避けられず、この状況で、そんな事態に甘んじている暇など無い、着地と共に、おっさんを蹴り飛ばせばいいだけの話だ、と思ってのことだったけれども、それは、鴉室も計算していたようで。

「早々、何度も蹴り飛ばされてちゃ流石に堪えるから、今は遠慮させて貰うぜ、無気力青年」

最低限の後退で、繰り出された甲太郎の蹴り足をギリギリ避けた鴉室は、ちょい、とターンして、地に足を着けた瞬間の甲太郎の背後を取り、首筋に腕を絡め、やはり、ちょい、と締め上げた。

「苦しい。気色悪い。鬱陶しい。おっさん臭い。序でに埃臭い。……退け。離れろ」

「まあまあ。そんな、つれないこと言うなって。つーか、おっさん臭いは酷くないか?」

「つれるとかつれないとか、そういう問題じゃない。おっさん臭いのも事実だ。加齢臭なんじゃないか?」

「あのなあ……。っとに、口の減らない……」

気道を潰すように廻された腕と、背に張り付く体を甲太郎は振り払おうとしたが、鴉室とてM+M機関のエージェント、そう簡単に振り解かれてはくれず、又、ちょい、と締め上げてくる腕の力を強くされ、ヒップホルスターに延ばそうとした手も器用に抑え込まれてしまった。

「だが! お兄さんは知ってるぞ、青年。君が、性根は優しい好青年だと言うことを」

「……あんたに、そんな風に言われた処で嬉しくも何ともないんだが」

「照れなくてもいいじゃないか、青年。例え相手が俺だろうと、顔見知りを傷付けるのを嫌うのが、君の本性の一つだろ? でなきゃ、さっきのアレで俺の足は骨折の憂き目だ。……と言う訳で。そんな君に、一寸相談があるんだが。耳、貸さないか?」

それでも、諦めずに逃れようとする甲太郎を何とか鴉室は制し続けて、異なことを言い出す。

「断る。おっさんに貸せるような耳も目もない」

「………………。……なあ、青年。実を言うと、俺は未だ、九龍のこと諦めてなかったりするんだ」

「諦めてない? …………どういう意味だ?」

「天香での騒動が片付く直前、九龍に、ロゼッタなんか辞めて、俺と一緒に組んでM+Mでやってかないか、って粉掛けたのに、見事に袖にされちまって。でも、お兄さんは今でも、九龍がロゼッタの宝探し屋なんかやってるのは勿体無いと思う訳だ。……だから、青年。九龍と一緒にM+Mに来ないか? 君が来ると言えば、九龍も来てくれるに決まってる」

「……………………何のことかと思えば……。本当に、耳を貸す必要もない話だったな。……もう一度、自分で直接、九ちゃんをスカウトしてみたらどうだ? 間違いなく、力一杯ぶん殴られる。……あいつが、何の為に宝探し屋をやってるのかも知らないで、知った風な口を利くな」

未だに九龍を諦めていない、などと、聞き捨てならないことを言われて、黙って鴉室の相談とやらを聞いてやってみれば、腹立たしい以上の誘いを告げられ、只でさえ苛立っていた甲太郎は、吐き捨てる風に呟き様、力一杯、鬱陶しい真後ろの男の足を踏み付け、背中側に、全体重を勢い付けて預けた。

「痛って! ……って、うぉいっ!」

思わず片足のみを引っ込め持ち上げた処に伸し掛かられて、鴉室は、甲太郎を抱き込む風にしたまま引っ繰り返る羽目になり、

「おっさん相手に、手加減した俺が馬鹿だったっ」

やっと、纏わり付く腕を振り解いて、怒りに任せ、転がった鴉室をサッカーボールの如く甲太郎が蹴り飛ばせば、既に半身程が岩から食み出ていた鴉室は、激しい音と水飛沫を立てて、水溜まりに転落した。

「皆守?」

「……何やってんだ? 甲太郎」

と、そこへ、阿門と、甲太郎にしてみれば、何故、彼と一緒にいるのか判らない京一が何時の間にか近付いて来て、腹立たしさの所為で肩で息をしている甲太郎と、どっぷり水溜まりに浸かっている鴉室を見比べた。

「あ? ……ああ、おっさんに首締められ掛けたんで、蹴り落としただけだ」

「首締められた? 鴉室のオッサンに? …………なーーーにをダセぇことやってんだ、甲太郎。鈍ってんじゃねえのか? 後で、ひーちゃんと龍斗サンに告げ口しといてやるよ、二人共、張り切って稽古付けてくれるだろうから、期待しとけ?」

「するのは、期待じゃなくて覚悟だろうが…………」

理由や成り行きはともあれ、その場にやって来た二人が状況説明を求めてきたから、端折って語ってやれば、途端半眼になって、あ? と不機嫌そうに唸りつつ、水溜まりから這い上がろうとしていた鴉室を刀の鞘で突いて池へ沈め直しながらの京一に鳥肌の立つ宣言をされ、甲太郎は、悪寒が背筋を走るのを感じ、ふるりと身を震わせる。

「……ちょ…………っ。剣術青年……!! 溺れるって! ゴボ……っっ」

「皆守、大丈夫なのか? 葉佩はどうした?」

京一とて、鴉室とは知らぬ仲ではないが、弟分な甲太郎の首を絞めたと言う事実にカチンと来たのだろう、仕返し、とばかりに鴉室を池の中に突き返すことを彼は止めず、阿門も、ぎゃあぎゃあと叫ぶ彼を一瞥しただけで見て見ぬ振りをし、さっさと話を進め、

「先に行かせた。……って、それ処じゃない、カウンセラーの実弟が、九ちゃんの後追ってるんだった!」

悠長にしている場合ではなかったと身を翻した甲太郎は、再び、亀裂目掛けてその場より跳んだ。

「劉瑞麗の実弟? 劉弦月、と言う彼か?」

「弦月ねえ……。……大方、ルイちゃんに駆り出されたんだろ。あいつ、ルイちゃんには頭上がんねえからな。心底ビビってるし」

「……そこまで、実の姉を恐れる理由が俺には判らん」

「阿門君も、色んな意味で強烈なお姉さんを持ったら、きっと気持ちが判るよ。……ね? 京一」

酷く慌てた様子で、甲太郎は亀裂の中へと伝っているロープを滑り下りて行ったけれども、九龍を追った相手が劉だと知った途端、なーんだ……、と拍子抜けした風になった京一と、彼に釣られた阿門はそのまま語り合ってしまい、彼等の会話に、何時しか壬生と共にやって来ていた龍麻が割り込んだ。

「そーゆーこと。俺の姉貴も強烈だから、あいつの気持ちはよく判る。──やっと追い付いたか? ひーちゃん」

何をしていても、誰と語らっていても、龍麻の氣や気配ならば当然以前に感じ取れる京一は、阿門には突然登場したと思えた彼と、ずっと傍らにいたかのように言葉を交わす。

「やっと、って。壬生と話付けてから、ずっと走りっ放しだったんだけど?」

「そっか。お疲れさん。……体、平気か? 何ともなかったか?」

「うん。見ての通り。そっちは?」

「俺は、阿門と行き会っただけだから、別にどうとも。────よう、壬生。『今日のひーちゃん』相手にすんのは、しんどかったんじゃねえ?」

そうして、半ば無意識に龍麻へ腕を伸ばし、二の腕を掴んで己の方に引き寄せた彼は、ニヤッと笑いながら壬生を見た。

「しんどいかどうか、君も後で立ち合ってみれば? 身を以て知れるよ。……処で。鴉室さん、何を遊んでるんですか」

「遊んでるように見えるのかよ、これが! ──壬生! その剣術青年を宥めてくれ、頼むから!」

「宥める……って、何かしたんですか?」

「大したこっちゃねえよ。鴉室のオッサンが、甲太郎の首締めただけだ」

語られずとも、事情も成り行きも結果も、容易に想像が付く、と笑う彼に、壬生は、「その手があったぁ!」と龍麻が目を輝かせた『提案』を無表情で告げてから、未だに水溜まりから這い上がらせて貰えない鴉室へ視線をくれ、『理由』を京一が教えた。

「……鴉室さん。そういうことは、京一や龍麻の耳に入る所でやらない方がいいんじゃないかな」

「あ、そうなんだ。甲太郎、鴉室さんに首締められたんだ」

「そ。……ああ、ひーちゃん。そういう訳だから、後で、龍斗サンと一緒に甲太郎に稽古付けてやれよ。鈍ってんだぜ、あいつ」

「判った。だったら、久し振りにしごかないとねー」

やっと気が済んだのか、いい加減やり過ぎだと思ったのか、壬生と龍麻に理由を語った直後、鴉室をイジコジするのを京一は止め、漸く足場の岩にしがみ付いた鴉室を壬生は再び見下ろし、龍麻は爽やかに笑みながら、京一と二人、甲太郎をしごき直す計画を立てつつストンとその場にしゃがんで、てい! と思い切り、這い上がり掛けの鴉室にデコピンを喰らわせた。

「おわっ!」

鋭過ぎたピンポイント攻撃の所為で、鴉室は再び水溜まりに逆戻りし、

「さて、どうするにしても、取り敢えず追い掛けるとするか」

「そうだね。壬生に、一緒に来たM+Mの面子教えて貰ったから、俺は焦るの止めちゃったけど、そろそろ、九龍も弦月も、どうしようかって困ってる頃かもだし」

「だな。──阿門、行くぞー。壬生、お前どうする?」

「ああ、判った」

「それこそ、どうするにせよ──と言うか、どうなるにせよ、僕も行くよ。仕事だし」

どぷん、と上がった水飛沫も、龍麻にまで仕返しされた鴉室も無視して、成り行きとは言え合流した一同は、亀裂の底へと下りた。