天香学園を卒業し、九龍の専属バディとなってから一年半程が過ぎた、二〇〇六年の秋辺りから、甲太郎は、稀に頭痛を覚えるようになった。
それまでの彼は、九龍の馬鹿が齎す精神的な頭痛以外は無縁だったので、己の体の変化に一番驚いたのは彼自身だったが、本当に、極々偶にのことだったから、そういうこともあるんだろうと、気にもしなかった。
それより十ヶ月程が経って、新たなる《九龍の秘宝》の手掛かりを求めて日本に帰国した頃、彼の覚える頭痛は度々になっていたけれど、市販の頭痛薬で簡単に抑え込める程度の症状だった為、偏頭痛か何かだろう、所詮は軽度の頭痛だ、と何処までも気楽に構えていた。
九龍と二人、世界中を駆け巡って宝探しに明け暮れる不規則な生活をしていれば、体調がおかしくなることだってある、と。
彼とは人生も日々も共にしている九龍も、水も無しに頭痛薬を噛み砕いて飲み込むような、乱暴な真似をする相方に目くじらを立てながらも、余り深刻には捉えていなかった。
けれども、月日が経つに連れ、彼の頭痛は回数も痛みも増すようになり、時には吐き気を催すまでになって、薬入りのピルケースが手放せなくなったばかりか、市販薬では抑え込めない頭痛に襲われ始めもし、去年──二〇〇八年の終わり頃になって漸く、見兼ねた九龍が、病院に行こう、と言い出した。
病院で、一度、きちんと検査を受けた方がいい、と。
だが、甲太郎は決して首を縦に振らなかった。
頑として拒否した。
『普通』の病院の門を叩くのが嫌なら、ロゼッタ協会の医療機関に行こう、そこなら諸々の融通も利く、と再三再四九龍が責っ付いても、甲太郎の態度は変わらなかった処か、ロゼッタの医療機関など、何が遭っても絶対に行かない、とまで言い切って、痺れを切らした九龍が、どうしてそうも医療機関や医者を嫌がるのだと問い詰めたら、渋々、彼は理由を吐いた。
自身にとって、病院と言う場所も、医者と言う存在も、可能な限り関わりたくないものなのだ、と。
迂闊に医療機関の検査など受けたら、記憶して『しまった』ものは決して忘れ去れないと言う、自身の抱える先天性の記憶障害に絡む何やらまで探られるかも知れない、もう、生まれ持った己の『持病』に関して兎や角言われるのは御免だし、その辺りを藪医者共に突っ込まれるだけなら未だしも、ロゼッタに知られてしまったら、モルモットにされ兼ねない、とも。
……だから、本当に嫌そうに打ち明けられた、甲太郎の『病院及び医者嫌い』の理由の『一つ』──彼がそうまで医者を嫌うのは、疾っくに絶縁した実父の職業が医者であることも絡んでいる──を知った九龍は、以降、強引な手が打てなくなってしまって、説教も鈍りがちになり、若干違法だが、人体に害は無い効き目の強い薬を手に入れて、それで何とか、と言う場渡り的な対処法で、彼等は、甲太郎の新たなる持病を誤魔化してきたのだが。
今回、とうとう、潜り込んだ遺跡内でレリック・ドーンとの戦闘中、甲太郎が持病に見舞われてしまった。
若干違法な薬も効かない、酷い頭痛に。
…………放っておいたら、何時かそんな瞬間を迎えることとてあるかも知れない、と二人共に危惧していても、敢えて、九龍も甲太郎も口にはしなかった、最悪の想像通りに。
ほんの数分体を休めただけで、一向に収まらぬ頭痛と戦いながらも脱出ルートのナビゲーションをしてみせた甲太郎を引き摺り、這々の体で遺跡より抜け出して、奪取した秘宝を回収に来たロゼッタ職員に引き渡して後
一九九九年に中国に返還されるまではポルトガル領だった、中華人民共和国マカオ特別行政区が、アンコール遺跡から一番近い、ロゼッタ所属ハンターの融通が利く医療機関のある街だったから。
────『東洋のラスベガス』とも、『東洋のモンテカルロ』とも言われる旧ポルトガル領マカオは、中国大陸に於ける、かつてのヨーロッパ植民地の中では最も歴史が古い、カジノで名高い一大観光地で、今でもポルトガル統治時代の法律が適用されている為、中国本土と比べれば遥かに『自由』な都市だ。
あれから二日程が経った今、九龍は、そんなマカオの、植民地時代の香りを強く漂わせる老舗ホテルのロビーにいた。
マカオに着いて直ぐ、リスボアと言う、以前はマカオのシンボル的な存在でもあったホテルに駆け込み部屋を取り、彼は、どうにかして甲太郎を医者に引き摺って行こうと奮闘したけれど、やはり、絶対に嫌だと頑固者は言い張って、不承不承、「これ以上は譲らない!」とホテルドクターを呼んで貰って甲太郎を診せ、兎に角、処方した薬を飲んで安静にしている以外、今は打てる術が無い、と告げたドクターのお達しに従い、昨日に引き続き、ベッドから出るなと厳命した愚かな頑固者が寝入るのを待って、一人、ロビーまで下りて来た。
甲太郎が寝ている隙に、今後をどうするか検討しようと考えて。
──相棒と言うだけでなく、親友でもあり恋人でもあり『家族』でもある甲太郎がどんなに嫌がっても、医者や医療機関の検査を拒絶する理由が理由でも、これ以上、手を拱
何とかして、彼を医者に診せなくてはいけない、それは自分の義務でもある、と。
人の三倍は口が回ると揶揄される己以上に、口達者で屁理屈屋な部分の持ち合わせもある甲太郎だが、あんなことが遭った直後だし、上手いこと言い包めるか、泣き落としの一手に出れば、頷いてくれるかも知れない、とも思った。
『病院』の当てもあった。
一般の病院やロゼッタの医療機関は駄目でも、霊的治療の第一人者としてヴァチカンに認められている院長がいて、九龍自身も厄介になったことがあり、自分達の『家族』でもある『御隠居達』や『兄さん達』とも縁の深い、東京は新宿の桜ヶ丘中央病院に行こうと言えば、交渉の余地はある。
桜ヶ丘の院長、岩山たか子は、見た目も中身も『趣味』すら強烈な女傑だが、信頼の置ける人物なのに間違いは無く、彼の『持病』を知っても、真摯に向き合ってくれる筈だと、疑う余地無く思えた。
甲太郎の頭痛が酷くなってきた頃から、時折、桜ヶ丘なら……、と九龍は考えていたし、その考えに基づき、例の古狸な本部長相手にやらかした『口喧嘩』の果て、甲太郎の療養許可ももぎ取ったから、その辺のことは何とかなる。
未だ、多分……、としか言えなくとも。
但、その計画を実行するには、一つ、余りにも世知辛くて現実的な問題があった。
…………新人宝探し屋として天香に潜入していた頃、散々、甲太郎に「ヘボハンター!」と怒鳴られ、キャリアが五年近くになった今でも、専属バディ殿より「ヘボ!」と叱られることのある九龍よりも、未だに、甲太郎の方が戦闘に長けている。
大分成長はしたが、ハンターとしての純粋な腕前は兎も角、事、戦いに於いては及ばない部分が多々だ。甲太郎抜きで下手を打てば、命の保証が無いかも知れぬくらいに。
だから、甲太郎の抱えるトラウマ的事情と、そんな事情が相俟って、桜ヶ丘に……、と思い始めても、九龍には中々踏ん切りが付かなかった。
けれども。
本当に本当に考えたくもないけれど、ちょっぴりでもそのことを思うだけで心臓が痛くなって泣いてしまいそうにもなるけれど、放っておいたら彼の命にも関わるかも知れない、手遅れになるかも知れない、だったら、専門外、と女傑院長に渋られようがどうしようが、拝み倒してでも甲太郎を診て貰って、治療や療養がどれだけ長期に亘ろうが、仕事なんかうっちゃって彼の世話をしよう、と九龍は、今回の出来事を切っ掛けに漸く踏ん切ったが。
甲太郎の頭痛に関して想像し得る最悪のケースが現実となってしまった場合、思った通りに動いたが最後、瞬く間に、彼等は収入源を失う。
生きていくだけならアルバイトに明け暮れれば何とかなるだろうけれど、大病の治療及び療養には大金が入り用になるのも現実で、更に九龍と甲太郎の肩には、『実家』となった西新宿の武道場建設費ローン、と言う、問答無用で鳴滝に負わされた借金が伸し掛っている。
果てしなく世知辛く、どうにも涙ぐましい話だが、それが、二人が抱える現実と事情なのに揺るぎは無く。
…………故に。
彼は一人、ホテル・リスボアの瀟洒なロビーの片隅で、柔らかなソファーを陣取りながら呻いた。