滞在中のホテルロビーにて、偶然、九龍がギャンブラーな彼に行き会った日の夜には、甲太郎も頭痛から立ち直った。
夕食を終えるや否や、日本に戻って桜ヶ丘中央病院に行こう、と主張した九龍に、始めの内、彼は何時も通り嫌な顔をし、断固拒否の構えを見せたが、今回ばかりは絶対に譲らない、と九龍に強く出られ、遺跡統括部の古狸と交渉して療養許可は取ってあることや、たか子は信頼出来る医者であることを懇々と語られ、昼間行き会った村雨より仕入れた話等々も元気良く聞かされて、やっと……本当にやっと、彼は桜ヶ丘行きを承諾した。
流石に、己の頭痛の所為で、九龍を危険な目に遭わせてしまったのが効いたらしい。
故に、翌日早速、二人は手続きを取って、ホテルを引き払い日本へ向かった。
マカオ発の直行便で、午後半ば頃に成田国際空港に到着した彼等は、電車で新宿に戻り、もう日は暮れているが、少しでも急いだ方がいいから、と言い張った九龍が往生際悪く渋る甲太郎の腕を引っ張る形で、桜ヶ丘中央病院を訪れた。
何時に訪れても閑散としていて、その内潰れるんじゃないか、との不安を覚える、桜ヶ丘中央病院の正面玄関を潜った九龍と甲太郎を最初に迎えてくれたのは、受付にいた二人の看護師だった。
桜ヶ丘の正看護師、高見沢舞子と比良坂紗夜の二人。
龍麻や京一の友人でもあり、九龍達とも顔馴染みの女性達。
噂だけは年中耳にする、けれど実際に会うのは数年振りになる宝探し屋とそのバディの登場に、舞子も紗夜も少しばかり驚いた様子で、何か遭ったのかと、心配そうに揃って眉を顰めたが、彼女達の前ではさらりとした態度を取って話を流し、呼び出して貰った院長のたか子に連れられ診察室に入って初めて、彼等は訪問理由を打ち明けた。
頭痛に悩まされている甲太郎を診察して欲しい、と。
思った通り、話を聞き終えるや否や、たか子は、「専門外。そんなにも酷いなら頭痛外来のある病院に行け」と突っ撥ね掛けたけれども、「そこを曲げて何とか!」と九龍は頼み込み、彼の余りのしつこさに、たか子の方が根負けし、多くは期待しないように、との条件付きながら診察を引き受けてくれた。
…………そうして、それより数時間が過ぎて、夜が更け始めた頃。
「……皆守」
幾つかの検査を終えて、再び診察室にて向き合った患者を、たか子は甚く真剣に見詰めた。
「何だ」
「……あの。たか子先生? 何か…………」
まるで某かを宣告する態度になった彼女を、患者用の丸椅子に腰掛けた甲太郎は無表情で、傍らに立った付き添いの九龍は不安そうに、それぞれ見詰め返す。
「お前、何か隠してることがあるだろう。今直ぐ、それを打ち明けな。以前に診てるから、天香で《力》を与えられた辺りの話は弁えてる。……それ以外で」
「…………心当たりなんか──」
「──甲ちゃん。この際だから、ちゃんと話そうよ。たか子先生なら大丈夫だってば」
眼前の彼の焦げ茶色の瞳を真っ直ぐ捉え、有無を言わせぬ風に詰め寄る彼女を、甲太郎は拒絶しようとし、そんな彼を九龍が制した。
「治したいんだったら、洗い浚い白状おし。強情っ張りな処まで、京一や龍麻に倣うんじゃない」
「……………………ったく。だから嫌だったんだ……。────俺は……──」
たか子に目で射抜かれ、九龍に促され、溜息付き付き、甲太郎は『医者』相手に己の『持病』を打ち明け、
「成程な。……だと言うなら、お前のそれは超記憶症候群かも知れない。あくまでも仮定の話でしかないが、少なくとも、『忘れることが出来ない』って部分は同じだ。…………今まで、辛かったろう?」
全てを聞き終えた直後、たか子は、ほんの少しばかり顔付きを柔らかくして、耳障りの良い声で言った。
「……そ、んなこと、は。別に……」
その声音は、医は仁術を体現している者のそれ、としか言い表し様の無いもので、不意打ちを食らったように、甲太郎は何とか絞った声を詰まらせながら、目線だけを下向ける。
無表情だった面には、僅かだけ、何かに心底から安堵した風な気色が浮かび、ゆるゆると、時を掛けて眼前の女医へと戻った眼差しには、先程までは無かった信頼の色が見え隠れしていた。
「但。お前のそれが、そうだとしても、そうでないとしても、原因は不明、としか言ってやれん。『忘れることが出来ない』の部分も、どうともしてやれない。──だが。やはり、但し。恐らくはその辺りにも絡んでいる筈の頭痛は何とかしてやれる」
「えっ!? たか子先生、本当ですかっ!?」
仄かに態度が変わり始めた彼へ、一転、たか子はすまなそうにしつつも、頭痛だけなら、とは言ってくれ、甲太郎よりも先に、九龍が身を乗り出した。
「検査の結果、お前の脳内は、セロトニン濃度が過多だと判ったんだ。普通、処方薬やサプリメントの過剰摂取が引き起こす症状なんだが……、あの脳内伝達物質は、所謂記憶力や海馬の再生に関係があるとの研究結果が出てるから、お前はひょっとしたら、『持病』の絡みで生まれ付き、脳内のセロトニン量が多いのかも知れない。……ま、何れにせよ、頭痛の原因は、脳内伝達物質の分泌異常ってとこだね」
しかし、「今、お前はお呼びじゃない」と彼を指先で押し退けてより、たか子は甲太郎のみを見詰めて話を続け、
「脳内伝達物質
余りピンと来ぬ風に、診断を受けた当人は首を傾げる。
「そう。…………これは、単なる儂の推測でしかないが。──疾っくの昔にセロトニン中毒になってなきゃおかしい程、元々から、お前の脳内セロトニン濃度は高かった。なのに、どうしてか、これまでは身体に異常無かった。だが、五年前から、お前は意識して、持って生まれた『記憶力』を駆使するようになった。その反動で、只でさえ濃過ぎたセロトニンの脳内濃度が一層濃くなって、セロトニン中毒を引き起こすようになった。セロトニン中毒の症状の一つは、頭痛と吐き気だ。お前が若年寄並みに長い睡眠を欲するのも、その所為かもだね。太陽光を浴びるとセロトニンの分泌が促されるから、眠ることで、無意識の自衛をしているのかも知れない」
「えっと……。じゃあ、甲ちゃんは重篤な病気じゃないってこと……ですか?」
「重篤じゃあないが、深刻ではあるな。セロトニン中毒だって、重くなれば最悪は死ぬよ。但、この見立てに間違いがなければ、拮抗薬を投与すればいい。頭痛や吐き気は止められる筈だ」
少々反応が薄い患者と、興奮し出した付き添い相手に、専用の椅子に深く背を預けながら長らくたか子は語って、何とかはなる、と頷いた。
「…………良か……、良かった………………。脳腫瘍とかだったらどうしようかって思ってたけど、薬で治せるんだ……。あーーー、良かった……」
「だが……」
解説が終わるや否や、九龍は、ホッと盛大に胸を撫で下ろしたが、甲太郎当人は、若干複雑な顔を拵えて、
「皆守。お前、今、京一並みに馬鹿なことを考えなかったか? ……こういう言い方はしたくないが、お前の『持病』は手強い。どうしてそうなるのかの本当の理由なぞ、今の医学じゃ解明も出来ないかも知れない。だから、薬くらい使ったって、『お前の仕事』に支障は無いさ。馬鹿な気なんか遣ってないで、医者の言うことは聞け。然もなきゃ死ぬよ」
一瞥した彼より何かを察したらしいたか子は、この馬鹿、と再度彼を睨み付けた。
「……判った」
「入院したりする必要は無いし、後で教える医薬品以外に制限も無いが、この手のことは霊的治療じゃどうしようもないから、暫くは通院するんだね」
そうして、甲太郎が頷くのを待って、彼女は、ふいっと右手を差し出す。
「……? 何だ?」
「さっきまで銜えてた、アロマのパイプを寄越しな。カートリッジ毎だ。丁度いいから、あれを薬に仕立ててやる。お前みたいなタイプには服用よりもいいだろうし、『香り』は即効性が期待出来る。嗅覚は、五感の中で唯一、脳内の知的活動部分と関わらないから、香りの分子に因る化学反応は、脳に直接影響する。お誂え向きだろう?」
ふん、と差し出された手と、たか子本人を甲太郎が見比べれば、直ちに理由が返されて、「ああ、そういうことか」と彼が納得するよりも早く、ズボッと彼の服のポケットに突っ込まれた九龍の手が『似非パイプ』一式を引き摺り出し、
「おい、九ちゃん」
「宜しくお願いします、たか子先生! 我が儘聞いてくれて有り難うございましたっ」
文句を言い掛けた甲太郎の足を踏ん付けてから、九龍は深々と、たか子へ、九十度以上の一礼をした。