出来れば西新宿の『実家』に帰りたかったが、たか子が、翌日の午前中までには例の薬を整えておくから、と言ってくれたのと、やはり翌日には如月骨董品店を訪れたかったので、桜ヶ丘を出たのは既に夜更けだった所為もあり、その夜は近くのビジネスホテルに泊まった九龍と甲太郎は、朝一番で再度たか子を訪ね、『似非パイプ』と薬を受け取り、五日後に診察の予約も入れてから、北区王子へ向かった。

道中、試しに、と使ってみた件の薬から香ったのは、二人共に嗅ぎ慣れたラベンダーのそれとしか思えず、「ラベンダーの香りって、却ってセロトニンの分泌を促す筈だから本物じゃないだろうけど、たか子先生は、どんなマジックを使って丘紫としか思えない『薬な香り』を拵えたのやら」と、主に九龍が盛大に不思議がっていた間に、新宿から如月骨董品店への短い旅は終わった。

その日も、江戸時代末期よりの佇まいを保ち続けていた、古びた骨董品店は静寂に包まれていて、けれども、その全てをぶち壊す勢いで玄関の引き戸を開けた九龍は、威勢良く中へと声を掛ける。

「こんにちはー!」

「やあ、いらっしゃい。……だが、そんなに大きな声を出さずとも聞こえるよ」

「挨拶は、爽やかな方がいいかと思いまして」

「……過ぎるのも問題かな。──祇孔から話は聞いているよ。葉佩君も皆守君も、上がってくれ。丁度、彼も来ている」

「はーい、お邪魔しまーす」

「邪魔する」

呼ぶ声に応えて帳場より出て来た、骨董品店の若き主の如月は、若干の苦笑と共に二人を迎え、九龍はいそいそと、甲太郎は毎度の調子で、彼の後に続いた。

「来たな、小僧共。もう、具合はいいのかい? 皆守」

「ああ。一昨日は、九ちゃんが世話になったみたいで、済まなかった」

「この間は有り難うございました、村雨さん」

「別に、大したこっちゃねえな。葉佩にも言ったが、ネタの対価は龍麻の先生達から分捕らせて貰うから、お前さん達が気にしなくともいいさ」

六畳程の広さの畳敷きの帳場には、やけに寛いでいる風情の村雨がいて、よ、と片手を上げた彼へ、年下な彼等は会釈を返し、

「もう、用意はしてあるんだ。村正、だったね」

友人達の弟分としてでなく、店の客としてやって来た本日の彼等へ、手早く淹れた茶を出しながら、如月は、早速商売の話を始めた。

「へーーー。これが、妖刀・村正、ですか。本物、初めて見た」

「妖刀、ね」

部屋の脇から彼が引き寄せた、鶯色の刀袋より取り出された一振りは打ち刀の作りで、黒漆仕立ての鞘に納まっており、柄巻は本鮫皮、鍔模様は梵字の図で、刃長は二尺七寸と少しと、打ち刀としては長い部類に入る品だった。

江戸時代初期、「大まかには」との但し書きは付くけれども、二尺三寸三分以上の長さの刀は所持を禁じられ、時代が下がっても、二尺六寸以上の刀を持つ者は希有だった──あくまでも、一応。全国的にはその限りでは無い──から、太刀で無く打ち刀であるのにこの長さである以上、江戸時代以前に打たれた物に間違いはなさそうで、見せられた刀を前に、九龍は目をキラキラと輝かせ、甲太郎は胡散臭気な顔になる。

どういう訳か、眼前の刀には、これ見よがしに古くて太い鎖が巻き付けられていて、容易には抜けぬようにされているのも、祟りだの呪いだのの類いを余り信じていない甲太郎が鼻白む理由の一つだった。

「皆守君は疑っているようだが、正真正銘、本物だ。銘も、『勢州桑名住村正』と入っていた。──葉佩君。これは、本当に妖刀だ。……いいのかい?」

「はい。ぶっちゃけて言っちゃえば、俺達がコレクションする訳じゃないんで。欲しがってる依頼人に流すだけなんで。妖刀でも何でもノープロブレムです。俺達に、妖刀の呪いや祟りが来る訳じゃないですからー」

あからさまに真偽を疑う甲太郎の態度に如月は肩を竦めて、この刀は嘘偽り無く妖刀、と告げてから、それでも構わないのかと、今度は九龍に念押ししたが、九龍は、祟りの引き受け先は、こーゆーのを欲しがる好事家だと、あっけらかんと言い、にぱら、と笑んだ。

「……ま、確かに」

「で。JADEさん、これは、お幾らでしょーか?」

「これくらいで」

依頼人がどうなろうと知らなーい、と言わんばかりに笑んで直ぐ、九龍は代金を問い、問われた如月は、着流しの懐からスチャッと取り出した算盤を弾く。

「えーと。ひー、ふー、み…………。……えーーー? ……せめて、これくらいになりません?」

「ならない。……なら、これで」

ピン、と弾かれた算盤の珠を半額になるまで九龍が下ろせば、眉一筋も動かさず如月は算盤珠を直して、以降、二人の交渉は静かに白熱し。

「…………。………………JADEさん? これ、京一さんと龍麻さんから、幾らで引き取ったんですか?」

「昔のこと過ぎて、一寸」

「又々。そんな、激しく判り易い嘘なんか言っちゃってー。…………引き取り金額は幾らで?」

「……さて」

「…………………………今、兄さん達に電話して訊いてみてもいいです?」

「……じゃあ、この額ならどうかな」

「もう二声」

「聞けない」

「だったら、せめて一声」

「これ以上は負からない」

「今度、秘宝クラスの招き猫、探そうかなー、って」

「そういうことなら、もう五千円だけ」

「そこは、万の桁で一つ」

「……六五〇〇」

「…………八五〇〇」

「六七五〇」

「刻みますなー……。……七千! 後、もう七千円だけ値引いて下さいってばー!」

「判った。ここから、六九〇〇円値引きで手を打とう」

「………………判りましたよ、いいですよ、それで……」

──膝詰め合って延々と、端で聞いていた甲太郎と村雨が辟易するまで九龍と如月は戦い続け、数十分後、二人の戦いは、七三の割合で如月が勝利を収めて決着した。

「くそぅ……。押し切れなかった。これだから商売人は…………」

それでも、勝敗が決しても尚、九龍はブツブツ言い続け、

「その商売人相手に、あそこまで粘る九ちゃんも大概だ」

盛大な呆れの溜息を甲太郎は吐く。

「ああ、そうだ。葉佩君、クエストの依頼品なんだろう? なら、この場で亀急便の配送手続きをしてしまおうか。手間が省けるだろうしね。配達料は何時も通り──

──はい? この上、規定料金を取ると!? そこは、ほら、アフター・サービスと言うかー。今のご時世、そういうのが流行りじゃないですかー。……わー、JADEさん、太っ腹ー」

「棒読みで言っても、説得力は無いと思うよ。それに、それはそれ、これはこれ。こちらも商売だからね。……そうそう。招き猫の件は、忘れないでくれ」

直ぐそこの彼に呆れられても、畳の上で『のの字』を書いて、勝てなかったよぅ……、と泣き真似を始めた九龍に、如月は追い討ちを掛けるようなことを言って、そんな物が実在するのか否かは果てしなく謎だが、『秘宝クラスの招き猫』の件も、しっかりきっぱり念押しすると、先に手続きを済ませるべく、さっさと立ち上がった。