ほぼ二十四時間で、しかも復路は車で、四国〜東京間を往復すると言う『荒技』をこなしてしまった所為で、下手をしたら昼を過ぎても目覚めないのではないか、と思っていたのに、どういう訳か早朝に起きてしまったなと、午前五時半を少々過ぎた頃、ムクリとベッドから起き上がった京一は、現在時刻を確かめて、軽くだけ肩を竦めた。
もう一、二時間くらいは寝たい気もしたが、疲れは取れているように思えたし、やけにすっきり目が覚めた感があった為、二度寝の誘惑に駆られることも無く、彼はベッドより抜け出る。
それでも、真冬の早朝、ほこほこした温もりに満たされている布団は名残惜しく、京一が目覚めたのにも気付かず、ぐっすり、幸せそうな顔をして眠り続ける龍麻はちょっぴり羨ましく、一瞬、彼は考えを改め掛けたが、その日の午前九時半までには新宿署に来て欲しいと小蒔に言われていたのを思い出し、「目が覚めて丁度良かった」と、龍麻を起こさぬように気遣いながら着替えると、顔だけ洗って階下へ下りた。
今日の相手は剣道特練員と呼ばれている警察官だから、何時もよりも長めの朝稽古をこなして、それから風呂に入って出掛ける支度をしようと、自分にしては少しばかりやる気に満ちているな、と思えた自身の発想に苦笑しつつも、彼は思う通りにし、部屋を出る時、考えるまでも無く手にしていた愛刀を道場の神殿前の刀掛けに預けると、代わりに、側面に掛けられている稽古用の樫の木刀を一振り取り上げ、無心に振り始める。
──今朝は普段よりも朝が遅いらしい京梧も龍斗も起きて来ない、唯々静かなだけの道場に、彼の息遣いや、摺り足や踏み込みの音のみが響き始めて暫し。
「おう。今日は随分早ぇな、馬鹿弟子」
早朝が朝になって来た頃、寝間着姿の京梧が、心持ち寝乱れた懐に突っ込んだ右手で、肩辺りを掻きながら現れた。
「そっちが遅せえんだよ、馬鹿シショー」
その姿に、朝っぱらからだらしねえな、と普段の己を棚に上げ、京一は顔を顰める。
「……ま、ちょいと、な」
「…………はいはい。ちょいと、な。……ったく、元気だな、年寄りのくせしやがって」
「はん。何が遭っても、お前にゃ言われたかねぇ」
「お互い様だろ。そりゃそうと、風邪はもういいのかよ?」
「ああ、すっかりな。──……っと、そうか。馬鹿弟子、確かお前、今日は仕事の日だったな。だから、珍しく身ぃ入れて素振りしてんのか」
「珍しく、は余計だっての。──それもあるけど、何か、早くに目ぇ覚めちまってさ」
「…………益々、珍しいこった。ま、いいことではあるが」
そうして、京梧は階段の上り口に立ったまま、京一は板張りのそこの直中に突っ立ったまま、一時憎まれ口を叩き合い、恙無く『朝の恒例行事』を終えると同時に、京梧は二階に引っ込もうと身を返し、京一は朝稽古に戻ろうと構えを取り直した。
「────おい。京一」
だが、階段の一段目を踏んだ処で、何の気無しに『馬鹿弟子』を横目で眺めた京梧は、ぴたりと動きを止める。
「あ? 何だよ」
「一寸、もう一遍、構えてみろ」
「構えろったって……、構えてんじゃねえか、もう」
「いいから。つべこべ言わずに、とっとと本気で構え直せ、唐変木」
「いきなり、何だっつーんだ、馬鹿シショー」
足を留め、己へと向き直り、微か首傾げるや否や、つかつかと寄って来た京梧に真顔で構えろと言われ、京一は、悪態を吐きながらも言い付け通りにした。
「…………京一。今直ぐ、桜ヶ丘行って来い」
すれば、京梧は頤に左手を当てつつ考え込む風になり、やがて、徐に言われたことに、今度は京一が首を捻った。
「は? 桜ヶ丘? 何で、ババアの所になんか」
「口で、何処がどうとは言えねぇし、お前自身にゃ悟れねぇだろう程度だが、何かが変だぞ、お前の構え。多分、どっかの具合を悪くしてる」
「……………………そう言われても。ピンピンしてるぜ、俺」
「だろうな。俺にもそう見える。だが、構えが言ってることは違う。偶にゃ大人しく師匠の言うこと聞いて、さっさと岩山に診て貰って来い」
「……判ったよ、行ってくりゃいいんだろ。あ、でも、今日の仕事──」
「──俺が代わりに片付けといてやる。だから、直ぐ発て」
「………………おう」
今直ぐ桜ヶ丘に、と言われても、京一にはそんなことをしなくてはならない心当たりなど一つも無く、首を捻るばかりだったが、頑に京梧に言われ、そうまで言うならと、半ば狐に摘まれたような心地で頷く。
「……ああ、龍麻。いい所に来た」
「あ、おはようございます、京梧さん。京一、おはよう。……いい所にって、何のことです?」
「お前、桜ヶ丘まで、この馬鹿引き摺ってけ」
「桜ヶ丘? たか子先生の所にですか?」
「そうだ。多分、どっか具合悪くしてやがる」
それでも、京梧の言い分がどうにもピンと来ぬ京一の動きは、何処と無くの不満が滲み出ているそれで、タイミング良く道場へ下りて来た起き抜けの龍麻へ、京梧は、同じことを言い付けた。
馬鹿弟子一人で桜ヶ丘へ行かせたら、途中でトンズラし兼ねない、と踏んで。
「え? えええええ? 京一が!? ──京一! 今直ぐ行こうっ。俺、支度して来るから、京一も早く支度!」
始めの内は、起きたばかりの所為もあって、相方と同じくきょとんとした顔だった龍麻は、瞬く間に顔色を変え、わたわたと慌てながら京一を急かしつつ階段を駆け上り、これで一先ずは安心だろう、茶でも飲むかと、京梧は暢気に茶の間へと上がって行った。
本当なら今頃、のんびり風呂に浸かってる筈だったのだから、汗を流す為のシャワーくらい浴びさせろ、と悠長なことを言う京一を、散々散々、龍麻は責っ付いて、何とか、京梧に言い付けられてから三十分程後には、二人揃って桜ヶ丘へ向かい始めたけれども。
「なー、ひーちゃん。腹減った。どうせ、もう一寸しねえと正規の診察時間にならねえんだから、何処かで朝飯食ってこうぜ」
と、新宿駅界隈を通り過ぎた辺りで京一がゴネ出したので、
「もー、京一は、そういうことばっかり言う……」
などと叱りつつも、食欲があるのはいいことだし、何で京梧さんがあんなこと言い出したのか判らないけど、この分なら大したことじゃ無さそうだから、と思った龍麻も、じゃあ……、とすんなり同意して、通りすがりに見掛けたファーストフードで朝食代わりのそれを腹の中に詰め込んだ二人が、桜ヶ丘中央病院に到着したのは、午前九時過ぎだった。
「おはようござ──。……おや。お久し振りですね」
庭と、駐車場と、タクシーなどが駐停車出来るように作られた小さなロータリーが、ごちゃりと混在している病院前のそこを抜け、正面玄関を潜り、目の前の受付へと向き直った彼等を出迎えてくれたのは、舞子や紗夜ではなく、長い黒髪を一つに纏め、白衣を着込んだ神鳳充だった。
今では九龍や甲太郎の友人の、かつては天香学園《生徒会会計》──《墓守》の一人だった彼。
京一と龍麻も、あの当時から顔見知りではある青年。
「……あれ? 神鳳君?」
「何で、お前がここにいるんだ?」
意表な人物と、意外な場所で巡り会い、龍麻も京一も、頭の天辺に疑問符を浮かべる。
「ああ、そう言えば、龍さんや皆守君にも、お報せし損ねたままだったんでしたね。──僕は今、ここで、言ってみれば研修医のようなことをさせて貰っているんです。未だ医学生の身分ですけれど、医師免許が得られたら、ここに勤めさせて頂こうと思いまして」
あからさまに、どうして? と不思議そうに問うてきた二人へ、神鳳は、「将来の為なんです」と、にっこり笑った。