約束の時間通り、京梧と、彼に連れられた龍斗の二人は、新宿署の武道場を訪れた。

訪問先が訪問先なので、その日、京梧の刀袋に納められていたのは、この世に一対だけ存在する、神刀・阿修羅の片割れで、実態は兎も角、見た目は只の白木の木刀にしか見えない一振りを取り出した京梧が稽古の支度を始めて直ぐ、新宿署の剣道師範である警察官が近付いて来た。

「おはようございます、神夷さん」

「……ああ。おはようございます」

「蓬莱寺君の具合は、大丈夫ですか?」

「…………え?」

一応、京梧にも、多少は世間体その他の持ち合わせはあるので、余所行きの顔や態度や言葉遣いで、話し掛けて来た師範を振り返った途端、やけに気遣わし気に京一のことを問われ、何でだ? と彼は目を瞬いた。

未だ、署内の誰にも、当然、眼前の師範にも、馬鹿弟子の代わりに己が来た理由を告げてはいないのに、と。

「何故、あれの具合のことを?」

「少し前、うちの桜井から連絡があったんですよ。今日は、蓬莱寺君でなく、神夷さんが代わりにいらっしゃる、と。……自分にも、その辺の事情が能く判らんのですが、蓬莱寺君から桜井に宛てて電話が掛かってきた際に、何やら騒ぎが遭ったとかで、改めて桜井から連絡を取ってみたら、彼が病院で倒れたと知らされて……、と。桜井も、甚く心配している様子だったものですから」

「倒れた…………? ……そうですか。わざわざ、有り難うございました。あれが病院に行ったのは弁えていますし、今日の稽古が終わりましたら様子を見に行ってみるつもりでいますので。ご心配無く」

すれば、訝しんだ京梧へ師範は事情を語り、訳を聞き終えて後も、京梧は、ひたすら余所行きの態度や口調を通し、武道場の隅に、ちょこん、と控えている龍斗に目配せだけをしてから、顔色一つ変えず、予定通り稽古を始めた。

内心、あの馬鹿弟子……、と思い、一瞬のみ、先に龍斗だけでも桜ヶ丘に行かせるか、と考えもしたが、甚だしい迷子癖の持ち主である龍斗が一人きりで桜ヶ丘まで辿り着ける筈も無いのを、京梧は誰よりも思い知っているので、そういう訳にもいかず。

かと言って、今更、済まないが今日の稽古は……、などとは出来ず、彼は只、常通りに振る舞い続けた。

糸が切れた操り人形の如く、呻き声一つも上げずに昏倒した京一を、龍麻は、たか子に言われるがまま、舞子や神鳳と共に、高三だった頃には彼自身も幾度も世話になった、霊的治療が必要な患者の為の特別入院病棟の一室に運び込んだ。

前触れも無しに倒れてしまって以降、意識を取り戻さぬばかりか反応もしない京一の姿に激しく動揺してしまった所為で、集中一つも出来ない龍麻には感じ取れなかったが、京一の容態を診始めて直ぐ、たか子も舞子も神鳳も、さっと顔色を変えた。

彼のこの状態は、今正に、誰にも手出しが出来ぬと思える程に質の悪い、否、悪過ぎるナニカに取り憑かれようとしている者に能く似ている、と口々に言いながら。

「え……? でも………………」

そんなことを、三人に口を揃えて告げられて、龍麻は益々混乱や動揺を深めたけれど、辛うじて、「あれ……?」と違和感を覚えることだけは出来た。

京一が倒れてしまったと言うだけで、冷静さも理性も、全うな思考すら、既に保てなくなり始めている自分には判らずとも、この、桜ヶ丘中央病院と言う『特別な病院』の長で、ヴァチカンにも力を認められているたか子は言うに及ばず、『幽霊さんがお友達』な舞子と、生まれ持った『口寄せ』の才と天香で得た《力》のある神鳳の三人共が、どうして、今の今まで、京一がそんな風になってしまっているのに気付かなかったのだろう、と。

だから、思った処を、ぽつりぽつりと彼が言葉にすれば、彼等は異口同音に、「視えたのも感じたのも、本当に突然だった」と答えた。

意識を失い昏倒するまで、京一がそんな状態に置かれているとは、微塵も判らなかった、と。

そして、何故、今の彼が『こう』なのか見当が付かない、とも告げてきた。…………たか子ですら。

「見当も……? え、それって…………。……たか子先生? じゃあ、その……、京一は……?」

「…………何とも言えないね。言えないし、言いたかないが、このまま、原因すら判らなかったら……────

────まさか、危ない……とか……? そんなこと無い……ですよね……?」

「………………だから。何とも言えない。……としか、今は言えない」

「……嘘。だって、さっきまで、京一、元気で。朝だって、元気で。何処か悪いかも知れないから、桜ヶ丘に行って来いって京梧さんに言われた時だって、京一だって俺だって、念の為にってことなんだろうって思ってて…………」

──『この手の出来事』が起こった際の頼みの綱である、たか子にまで深刻な顔をされ、瞳を見開いたまま、龍麻は囈言のように繰り返し、ガタリと、己の身も支えられなくなった風に、京一の眠るベッドに手を付いた。

「ダーリンっ! ……大丈夫?」

「緋勇さん、こちらに座って下さい」

直ぐそこで横たわる京一以上に顔色を悪くし、ふらりと体を傾がせた彼に舞子は駆け寄り、神鳳は、付き添いの為のパイプ椅子を引き寄せる。

「……あ、うん。大丈、夫…………。…………あ、電話……」

二人に促されるに任せ、とさり、固いパイプ椅子に龍麻が腰掛けた瞬間、彼の携帯が服の中で鳴り始め、のろのろと、うるさく鳴る携帯を探り出した彼は、首を傾げながら電話に出た。

「もしもし……? …………あ、桜井さん。……ああ、さっきの電話の件……。…………御免ね。京一が、今日は行けなくなったから、自分じゃなくて……。……うん、そう。京梧さ──神夷さんが代わりに、って。その連絡だったんだけど、途中で京一、倒れちゃって…………。…………うん。……うん。今、桜ヶ丘なんだ。………………御免、桜井さん。又、後で掛け直してもいいかな。俺、今一寸、それ処じゃないみたい……」

覚束無い声で、呆然と、落ち着き無く視線を彷徨わせながら、何とか、小蒔よりの電話だったそれに受け答えてから。

「……どうし、よう………………」

切ったばかりの携帯電話を握り締めて、彼は深く俯く。

「…………高見沢。誰か、呼んでおやり」

「はぁい。────ダーリン。お家に電話しよ? ね?」

「家……? ……でも……、京梧さんは京一の代わりで出掛けてるし、龍斗さん一人じゃ桜ヶ丘まで来られないし……。九龍と甲太郎は、昨日から帰って来ないし…………。蓬莱寺のおじさんとおばさんには、こんなこと言えないし…………っっ……」

「……龍さん達には、僕が連絡を取ってみましょう」

「じゃあ、舞子ぉ、劉君呼んでみるねぇ。午後になれば、紗夜ちゃんも来るしぃ」

そんな彼を見兼ねたのだろう、『付き添いの付き添い』を呼べ、とのたか子の指示に頷いて、舞子は龍麻を促したけれど、自分の手が握り締めているのが携帯電話であるのも思い出せない彼の有様に、神鳳と舞子は顔を見合わせ、一旦、たか子を見遣ってから、思い当たれた『付き添いの付き添い』に連絡を付けようと、病室を出て行った。

「龍麻。お前、何か心当たりは無いか?」

「心当たり……?」

「京一が倒れた心当たり」

「………………もしかしたら、昨日のことかなって……思わなくはないですけど、でも、あれは……。甲太郎が、刀が掠ったんじゃないかって言ったけど、京一、何処も斬れてなかったし…………」

「刀? 京一が、刀で斬られたのかい?」

「斬られたんじゃなくて、えっと…………、掠めたかも知れない、って言う程度で……。だけど、斬れた訳じゃなくて…………」

「……掠めたかも知れないけれど、斬れなかった刀、か。触れても斬れない……。…………聞いたことも無いね、そんな刀の話は……」

少々慌ただしく二人が出て行き、静けさを取り戻したその病室にて、たか子は、京一と龍麻、二人の様子を窺いつつ穏やかな声で尋ねたが、龍麻も、龍麻の答えを聞いたたか子も、唯、ゆるりと首を振った。