村正、又は千子村正とは、本来は刀そのもので無く、『勢州桑名住村正』の銘の刀を打った、刀鍛冶のことを指す。

室町時代、伊勢国桑名──現在の三重県桑名市辺りで活躍した、恐らく、現代で最も『有名』な刀工の一人。

…………村正の手による刀には、常に、妖刀伝説が付き纏う。

村正が妖刀と言い伝わる所以は、徳川家を祟ったからだとも、刀そのものが血を求めるからだとも言われ、江戸時代の中頃には既に、村正の妖刀伝説は世に広がり、幕末時には、徳川を祟ると言われる妖刀を、倒幕を志す維新志士達がこぞって求めたとの記録が残っている。

「………………とは言え。村正が妖刀だなんて言い伝えは、所詮は眉唾もんだ。本当に、村正が徳川を祟った刀なら、尾張徳川家に神君・家康公の形見の村正が伝わる筈なんざ無い。関ヶ原以前より徳川の忠臣だった連中が、村正の打った得物を手に取る筈も無い。師だった正宗の才を妬んだ村正が打ったから、村正の刀は妖刀、なんて話も有り得ない。正宗は鎌倉の頃の刀工、村正は室町の頃の刀工。……時代が合わない」

大人しく黙って聞け、と言い置いてから口を開いた京梧は、一部の者達にしてみれば、今更言われずとも……、な話をつらつらと語ってから、

「…………だが。『初代・村正』は、たった一振りだけ、まことの妖刀を残した。……それが、こいつだ」

手にしていた村正を、もう一度、ふいっと彼は掲げた。

「初代は、刀工として天賦の才を持っていた。そうとしか言い様が無い。……何故なら。初代が初めて打った刀、それが、こいつ──妖刀だったから」

「え。初作が、ですか? ……うわ。初作が妖刀…………」

語り続ける彼と、掲げられた村正を見比べ、九龍は、ちょっぴりだけ嫌そうな顔をしたが、『現代人』にゃ判らねぇだろうな、と京梧は愉快そうに忍び笑う。

「室町の終わり頃は、即ち戦国の頃だ。乱世の始まりの頃。誰よりも踏ん反り返ってたのは、人斬りが生業の武士で、それより、徳川幕府が太平の世を築くまで、刀も、刀本来の姿で在り続けた。……剣や、剣技や、刀ってもんが、『まことには何の為に在るのか』は兎も角。刀の本分の一つは、人を斬る為の物であると言うそれ。敵を討つ為に、斬る為に、侍が振るう刀を、天賦の才を持った刀工が精魂込めて打てば、妖刀の一つや二つ、生まれた処で何の不思議もねぇな。寧ろ、それが当然ってもんだ。…………但。言い伝えでは、初代・村正は、意図せず妖刀を打っちまったことを悔やんだらしい。──こいつは、只の妖刀じゃない。敢えて言うなら妖刀『過ぎた』。物であるにも拘らず心を持ち、その心のまま、人を斬る刀で在ろうとし、己を手にする者達の魂を奪って、生き血を求める鬼に変える。……こいつは、そんな刀だ。だから、以来、初代は決して妖刀は打たなかった。必ず、『刀が刀として在れる範疇』に留めた」

……そこまで語って、一つ、大きく息をした彼は、手にしていた村正を、ひょい、と龍斗に預け、廊下の壁に凭れ直して、着物の袖の中で腕を組んだ。

「が、初作を鋳潰すことは、流石に出来なかったらしいな。生まれちまった妖刀は、何時しか人から人へと伝わり、世の中を渡り歩いて、幕末の頃には、新撰組の或る隊士の物になった。……その隊士は、ちょいと訳ありな奴で、妖刀を封じる力を持つ鎖──今も絡み付いてる、『如月骨董品店で扱ってたあれ』でその力を抑え込んで、誰も呪われねぇようにしてた。……って話だ。それが何で、日光の華厳の滝に放り込まれてたのか、何で、百何十年振りに見付かったのかまでは知らねぇが──兎に角。百数十年振りに姿見せた一振り目の妖刀は、お前達も能く知る成り行きで、如月骨董品店に転がり込んだ」

「ならば、二振り目は? …………京梧? お前は何故、二振り目の妖刀を知っていたのだ?」

連れ合いが始めた、『懐かしい逸話』も微かに織り混じっていた一振り目の妖刀の話、それが終わった時、受け取った村正を脇に置きつつ、龍斗は、つい……と京梧を見上げた。

「…………これは。龍斗、お前にも敢えて黙ってた話だ。────未だ、俺が十六、七の若造で、武者修行、なんて言いながら方々ほうぼうを彷徨ってた頃に、ちっと色々遭って立ち合った奴から聞いた話でな」

「立ち合った者と話? お前が?」

「それこそ、ちっと色々と遭って、って奴だ。──『村正』の銘は、初代が逝っちまってからも、三代目までは受け継がれた。眉唾でしかない、村正は徳川に祟るって噂を諸大名が信じるようになった所為で、四代目からは銘を変えちまったが。……が、村正一門で唯一人、改銘を潔しとしなかった刀工がいた。そいつの生涯最後の刀、それが、二振り目の妖刀・村正。…………初代を天才とするなら、そいつは凡才だった。代わりに、唯ひたすら努めた。どうしても初代に勝りたかったらしい、初代以上の作を生むことだけを願い続けた刀工の、生涯最後の妖刀であるべく打たれた一振り、それは、或る意味では初代を超えられず、或る意味では超えた。…………その刀は、斬れなかった。人処か、物さえ。何一つも。……その代わり。魂が斬れた」

「魂を……」

「そうだ。そいつには、判ってたらしい。てめぇには初代を超えられねぇと。だってのに、初代超えのみを願い続けて、やがてはそれを、積怨にまでしちまった。初代の才を妬み、己の才を恨んだ。俺に言わせりゃ、んなもなぁ只の逆恨みでしかねぇが、そいつにとっちゃ、そうじゃなかった。そればかりか、妬みも、恨み辛みも募り過ぎて、終いにゃ何も彼も儚んだ挙げ句に血迷って、人の世までも呪い始めた刀工が執念のみで打った刀には、初代のそれのような『刀そのものの心』で無く、人外が宿った。血迷ったそいつと同じく、人の世を呪う物の怪達。そんなもんが宿っちまった刀は、人の血肉で無く、魂を斬るそれだった。刀に宿る物の怪共が、魂を喰らう為に」

「……………………京梧。問うても良いか」

「……何を」

何故なにゆえ、流浪の最中さなか、出会い、立ち合った者から聞かされたその話を、お前は信じた?」

二振り目の妖刀・村正が生まれた理由わけと、刀に宿る悪しき力、それを聞き、ずっと京梧を見上げ続けていた龍斗は、今の話をまことと信じる訳を問う。

「…………俺が立ち合った相手が、血迷った刀工の末代で。その妖刀の持ち主だったから」

「その者が?」

「ああ。……立ち合ったそいつから村正を託されて、大山祇神社に納めに行ったのは、俺なんだ」

刹那のみ、問いへの答えを躊躇ったものの、この場に居合わせる者達も、『この話』から自分の『年齢』に疑いを抱いたりはしないだろうと踏んだ京梧は、低い声で打ち明け、

「ならば、もう一つ。その村正に魂を斬られた者は、どうなる?」

彼よりも尚低い声で、龍斗は再度、問いを。

「…………………………言い方は、この上無く頂けねぇが。判り易く言っちまえば、人を食うふかの群れの中に、格好の餌投げ込むのと一緒だ。然もなきゃ、百鬼夜行の列に赤子を放るようなもんだな。放っときゃ、刀に宿る物の怪共だけじゃなく、斬り付けられて弱った魂の匂いを嗅ぎ付けた異形共が、我先に喰らいに来る」

「それで?」

「……それ以上を、俺に言わせてどうする。寄って集って異形に魂喰われた奴の末路なんざ、お前が一番知ってるだろうが。──魂喰われて終われば未だいい。それで終われなけりゃ、己も又異形になるか、或いは、例の刀工や、妖刀に宿る物の怪共同様、この世を滅ぼすモノと化すか」

二度目の龍斗の問いは、「では、そんな妖刀に斬られた京一はどうなるのか」とのそれで、語らずとも判っていることを最後まで言わせる気かと、渋い顔しつつ京梧は言い切る。

「そうか。確かに、そうだな。────判った」

途端、傍目にもはっきりと龍麻の体が震え出し、震える体を一際強く抱いた龍斗は、彼を抱えたまま立ち上がった。

「おい、龍斗?」

「ならば、少なくとも今、私に出来ることは一つしか無い」

「お前に出来ること?」

「京梧、お前の言う通りなら。一先ずでも、魂の傷を塞いでしまえば良い。流石に、何時までもと言う訳にはいかないが」

「……あのな。何時も何時も、お前はその手合いを簡単に口にしやがるが、魂なんざ、どうやっ…………。…………龍斗。まさか、お前」

「今は、小言は聞けない」

「待ちやがれ! いい加減にしねぇか、只でさえ、お前は『二人分』だろうがっ!」

「小言は聞けないと言った筈だ。何とかする。それに、京一が相手では、お前の時のようには出来ない。────龍麻? 話は判っているな? 必ず、京一の目が覚めるようにするから、手を貸しておくれ」

腕の中に囲った、我が子の如く想っている龍麻を促しながら病室へ向かい始めた龍斗の考えに気付き、京梧は大声を張り上げ留めようとしたが、彼にはきっぱりとした声で、龍麻には穏やかな声で、それぞれ意志を告げると。

「岩山院長。許しを頂きたいのだが」

「…………ああ、構わないよ」

京梧も、他の者達も振り切って、龍斗は、たか子と龍麻のみを伴い病室に踏み込み、ぴちりと部屋の扉を閉めた。