何時まで経っても、龍斗は、猫が乗り物を怖がるのと同じ理屈で車が駄目で、桜ヶ丘中央病院の正面玄関前に横付けされたタクシーを、ちろり……、と見遣って直ぐさま、彼は及び腰になった。
京梧や『子供達』に言わせると、何で、電車や船は何とかなるのに車だけが駄目なのか、似たようなものじゃないか、となるが、龍斗に言わせれば、「天地程も違う」のだそうで、ドアを開いて客の乗車を待ち構えているタクシーを前に、むぅ……っと龍斗は拗ねたけれども、然りとて、京梧に担がれなければ立っているのも儘ならない京一を、道場まで連れ帰るには車を使うより他無く。絶望的な迷子癖を持つ彼が、一人きりで桜ヶ丘から西新宿まで辿れる筈も無く。
ちょっぴりだけ龍斗は悲痛な顔付きになったが、御門にする風に付き従った芙蓉にコソリと何やら耳許で囁かれた直後、うん、と妙に素直に頷いた彼は、すんなり車に乗り込んだ。
普段なら、京一も龍麻も、そんな彼等の様を訝しがれただろうが、二人共、揃ってそれ処では無く、京梧は、或る意味『激しく無駄におおらか』なので、これっぽっちも気に留めず。
「甲ちゃん。芙蓉さんって、式神っしょ?」
「それが、どうかしたか、九ちゃん?」
「式神ってことは、芙蓉さんはヒトじゃ無いってことで。ヒトじゃ無いってことは、龍斗さん曰くの『皆』の一人でもあるってことで。……もしかしなくても、芙蓉さんには、一目見た時から、龍斗さんが『そういう人』だってバレてたのかな」
「……だろうな、あの式神のあの態度は。だが、彼女も『皆』の内なら、バレた処で問題は無いんじゃないか? 『メルヘンの世界の人』と連中の間には、俺達には判らない、謎な暗黙の了解があるようだから。あの式神も、余分な事は言わないだろうさ。──それよりも、九ちゃん。急ごう」
「あ、うん。そだね。俺達は、俺達に出来る仕事しないと。もう、これ以上、兄さん達にも御隠居さん達にも、迷惑掛けらんない」
入院病棟の様子を酷く気にしながらも、受付ロビーで通常業務をこなしていた舞子や紗夜に呼んで貰った六名乗りの大型タクシーが、西新宿の道場目指して走り去って行くのを見送った九龍と甲太郎のみ、龍斗と芙蓉を気にしたけれど、彼等も、今はそれ処では無いし、あれは、放っておいても平気……なんじゃないかな、多分。相手は式神さんだし。…………と至極適当に流して、迎車した二台目のタクシーに乗り込むと、ロゼッタ協会日本支部へ向かった。
午後半ば、帰り着いた道場一階の神殿下に、京梧は、ゴロリと京一を転がした。
彼が馬鹿弟子をぞんざいに扱うのも、何処までも毎度の事でしかないが、今の龍麻には酷く情け容赦無いそれに思えて、頭では判っていても心が焦り、「せめて、毛布か何か」と、龍麻は慌てて二階に駆け上って行き、彼の姿が消えた途端、ふらっと、龍斗の足が揺らいだ。
「……平気か?」
微かに震えた膝が折れるより早く、京梧は彼を抱いて支え、片隅に佇む芙蓉の存在は敢えて黙殺して、京一から最も離れた隅に龍斗を引き摺ってから、小声で囁く。
「ああ。『皆』にも手を貸して貰っているから。だが、流石に『四人分』は堪える。体も、思うようにならない」
「四人分?」
「お前と、京一と、龍麻と、私自身」
「…………何で。お前と俺と馬鹿弟子の、『三人前』じゃねぇのか」
「いいや。私は京一の半身では無いから、お前にしたようには支えられない。京一を支えられるのは龍麻だけだ。だが、私がした術と同じ術はさせられない。あれをやらせる為には、黄龍の力が必要になる。……今のあの子には、到底無理だろう? それに、私の力と龍麻の力は、やはり、似て非なる物だ。等しいと言えるまでに近しくとも、全てが等しくは無い。だから、龍麻の氣で京一を支えさせて、私が京一毎龍麻を支えている。血の繋がりがあるから、或る意味では、お前を支えるより龍麻を支える方が容易い。故に、今の私は『四人分』だ」
「……ったく、無茶しやがる…………。幾ら、お前の後ろにゃ例の連中が付いてるったって、限りってのがあるぞ」
鼻風邪一つ引かない、この上無い健康体の見本の龍斗が、僅かとは言え顔色を悪くし、剰え身をふらつかせるなど到底尋常で無いのも、その理由は桜ヶ丘での『あれ』にあるのだろうのも、京梧には容易に悟れるから、馬鹿弟子の耳には届かぬ所で、暗に、やり過ぎたのではないかと問うてみたら、龍斗は、やり過ぎ処か……、な事情を何時もの調子でツラっと語って、故に京梧は、「どうして、俺が惚れた相手は、こうも馬鹿なんだ……」と溜息を吐いた。
「そうは言っても。こうする以外の術が私には思い付けぬのだから、致し方なかろう」
「だからってな……。……ま、言うだけ野暮か。──で? どれだけ保つ?」
「一日。万が一を考えるなら、一晩」
「一晩、か。…………なら、一晩で、何とかするしかねぇ」
だが、こうする、と決めたのは龍斗自身なのだから、己に小言以上の口は挟めないし挟まない、と京梧は面差しを塗り替え、龍斗は芙蓉へ向き直る。
「芙蓉。お前は『皆』の一人だから。対面した刹那から、『私』を判っているな。私達の手伝いを買って出てくれたのは、それ故になのだろう?」
「御意。龍斗様が何者か、存じ上げている故にでございます。そして、貴方様が、出来得る限り、ご自身のお力を隠そうと為されておられるのも、存じておりますので」
「私が、何者か、か。……なら、芙蓉。私は、多くは言わない。お前も、他の『皆』のように多くは言わないで欲しい」
「承知致しております。私は唯、貴方様のお力になる為に、参っただけでございます」
じっと己を見詰めつつ佇む龍斗に、芙蓉は、その場にて畏まりながら言った。
「京一! 未だ起きてる!? 目、覚めてるっっ!?」
そこへ、自身の有様にも思い至れたのか、血塗れだった服を着替えた、毛布だの枕だのを両腕一杯に抱えた龍麻が、けたたましい足音を立てつつ階段を駆け下りて来て、すっと身を引いた芙蓉は、この屋を訪れてから今まで、ずっとそうしていた風な態を取り、
「あー……? 起きてる……。何とか起きてっから、心配すんな、ひーちゃん……」
本当に怠そうな、夢現
「そんなの無理に決まってるっっ。京一、具合は? どうしてるのが一番楽?」
「どうしてるも、こうしてるも……。引っ繰り返ってるしか出来ねえって……」
「……そっか…………。────龍斗さん。京梧さん。この後は、どうしたら…………?」
「ああ、そうだった。その話をしなくてはならなかったな。……京梧。桜ヶ丘から京一を連れ帰って来たのには、理由
ゴロリと床に転がされたままの京一の枕許を占めて、彼の頭の下に枕を突っ込んでみたり毛布を掛けてみたりと、忙しなく働きつつの龍麻に縋る目を向けられて、龍斗は、京梧へと首を巡らす。
「訳っつっても、些細な訳だがな。流石に、あそこから先は、ツラ拝むのは初めての餓鬼共の前じゃあ言えねぇと思ったから、口噤んでただけの話で」
お前は本当は、何を何処まで知っている? と連れ合いに首傾げながら尋ねられて、京梧は軽くだけ肩を竦めた。
「…………俺の憶えが確かなら。あれは、文久三年だった筈だ。文久三年の、冬の初め頃」
そうして京梧は、芙蓉の前で打ち明け話をしてしまっても平気かと、眼差しだけで龍斗に問い、彼がこくりと頷くのを待って、転がした京一の向こう──武神を祀る祭壇下の刀掛けに、どさくさに紛れて持ち帰った一振り目の妖刀・村正を預けつつ、桜ヶ丘では黙した話を始めた。