文久二年。西暦に直せば一八六二年の夏。
武州・生麦村──現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦にて、当時の薩摩藩主の実父の行列に騎乗したまま乱入したイギリス人を、藩士が斬り捨てる、と言う事件が起こった。
世に言う、生麦事件。
京梧が例の刀工の末裔に出会したのは、生麦事件が起こった文久二年八月より一年と三月程が経った、文久三年霜月頃の事だった。
武州にての騒ぎは風の便りに聞いてはいたが、その頃は四国を彷徨っていた、政になど興味の欠片も持てない彼には、与太話以下の事件でしか無かったけれども、生麦村での出来事が、京梧と刀工の末裔とを引き合わせた切っ掛けではあった。
文久三年七月には薩英戦争を引き起こした生麦事件の所為で、外交絡みの政治に関わる膿みが曝されてしまい、倒幕を志す者達は、それまで以上に気炎を吐くようになって、やはり、それまで以上に、彼等が験担ぎと称し、徳川を呪う村正を求め始めたから。
────江戸時代初期に打たれた二振り目の妖刀・村正、その存在を知る者は、世間では皆無だった。
それは、例の刀工一族のみの秘め事だった。
一度、他人の手に渡ったら世の中をも狂わせ兼ねない、自身達の先祖が生んでしまった妖刀を、刀工の子孫達は、二百年以上もの年月、決して他人には口外せず、血筋のみで秘かに護り続けた。
だが、京梧が巡り会った彼が、村正一門に名を連ねていた刀工の末裔であると知る者は、世間に幾人もいた。
故に、生麦事件を切っ掛けに、血眼と言えるまでに村正を探し求め始めた倒幕派の愚か者達が、己達の求める刀の一振りや二振り、隠し持っていてもおかしくなかろうと、彼の家に乗り込んで来た。
抗う間も無く、そんな野蛮な者共に家探しまでされてしまった刀工の末裔は、このままでは時間の問題だ、と悟った。
一族のみで隠し護るだけでは、何時の日か、真実妖刀である例の刀も奪われてしまうかも知れない。ならば、然るべき場所に託してしまおう、とも。
……そう考えた彼は、一人、故郷
日本総鎮守の号を持つ伊予国一宮に、己が先祖が生んでしまった妖刀を託すべく。
……………………けれど。
伊勢から伊予への長い旅路の中、只人が携えるには良くない刀を肌身離さず抱え続けていたからだろうか、毒気に当てられたかのように、目指した日本総鎮守を目前にして、彼は、妖刀の誘惑に負けた。
誘惑に負け、抜き去った刀を手に、辿っていた、山中を抜ける裏街道の直中で偶然行き会ったお遍路の母娘
「お遍路の母娘を……」
「……ああ。────俺が、あいつに行き会ったのは、あいつが行きずりの母娘に斬り掛かった処だった。あいつと母娘が偶然行き会ったように、俺とあいつの行き会いも、全くの偶然だった。偶々、同じ裏街道を辿ってた以外の訳は無い。……だが。偶然だったから。偶々だったから。一目で何かに憑かれてるのが判る目をしたあいつは、見ず知らずの母娘ばかりか、そこへ通り掛った俺にも斬り掛かって来た。…………正味の話、初めは、悪い山氣か何かに当たった馬鹿が、追い剥ぎでもやらかしたんだろうと思った。だから、俺は、あいつを斬った」
元々から神殿下の刀掛けに掛かっていた京一の阿修羅の下に、妖刀・村正を掛け終えて、パン、と着物の裾を割りつつその場に胡座を掻いた京梧は、刀工の末裔と出会した際の出来事を語り、
「それから、どうなったんですか……?」
己や京一の直ぐ傍に座した彼へ、龍麻は、そろっと上目遣いを送る。
「どっからどう見ても、あいつは侍には見えなかったし、刀で斬られた筈の母娘も、見た感じ、怪我一つ負っちゃいねぇ風だった。だから、一応の加減はしてやって、後のことは麓の番所にでも任せようと思ったんだが。正気に戻ったらしいあいつは、何とか彼んとか、てめぇの事情を一切合切打ち明けて、俺にあの妖刀を託して、そういう訳だから、日本総鎮守にこの刀を納めて欲しいと言い残して直ぐ、崖から身投げしちまった。留める間も無かった。…………それだけでも、正直、後味の悪りぃ話なんだが。その後が、尚、頂けなかった」
すれば京梧は話を続けながら、何故か鬱々とした溜息を吐いて、余り思い出したくなさそうにボソリと洩らし、
「刀工の末裔とやらが斬った、母娘のことでか」
その理由を、龍斗は何となく察した。
「…………そうだ。……糞長かったあいつの話に耳貸してやった後も、んな馬鹿げた事があって堪るかと思った。でも、これから身投げしようって奴が、まるっきりの出鱈目話をするとも思えなかったから、どうするかと悩んでた最中、いきなり、目の色変えた母娘に襲い掛かられてな。…………気が付いた時には手遅れだった。……いや、俺が連中と出会した時には、もう既に手遅れだった。助けてやったのに何の真似だと、頭に血ぃ上らせながら改めて母娘を眺めたら、そりゃあ薄っ気味の悪りぃもんが視えた。あの頃の俺は未だ、異形との関わりは無かったし、昔も今も幽鬼の類いとは縁遠いが、それでも視えた。百鬼夜行の列を成してる物の怪共の塊みたいな、ヒト以外の何かが。正体なんざ知らねぇが、人外とだけは言えるモノが。……そんなのが、痩せ細ったお遍路支度の母娘──訳有りだったんだろう女と、三つかそこらの女童
「……そうか」
「…………そうだったんですか……」
今まで、京梧がこの話を龍斗にも敢えて語らなかった訳、彼の言った『成仏』の意味、それを知り、龍斗は京梧を見返して、龍麻は、そっと京一を見下ろした。
「そいつ等はそいつ等。俺は俺、だろ……」
降って来た、遣る瀬無さそうな眼差しに京一は苦笑を浮かべ、故に、道場の一画には、本当に僅かばかり、重さを持った何かが漂った感が生まれたが。
「────ま、そういう訳で、だ」
微かにだけ俯かせていた面を持ち上げた京梧は、注がれる龍斗の眼差しも、ぎこちなく見詰め合う京一と龍麻が渡し合っているナニカも、唯々気配を潜めて片隅に佇む芙蓉も、全て置き去る如くな雰囲気を纏って、灯る光を強めた瞳を少々細める。
「俺は、一度限りだが、あの妖刀に斬られた奴等をこの目で見てる。あの時は手遅れだったが。今なら未だ、馬鹿弟子は何とかはなるだろ。要は、湧いて出る化け物共に、この馬鹿を喰われなきゃいい」
そのまま、事も無げに言い切った彼は、パンと一度膝を叩いてから立ち上がって、
「どうして、私が好いた相手は、こうも馬鹿なのやら。……なあ、京梧?」
薄く笑った龍斗は、先程京梧にくれられた科白を、そっくり返してから。
「さて、龍麻。芙蓉も。だと言うなら、そろそろ始めなくては」
ぽんぽんと、彼は龍麻の傍に寄ってその背を叩き、次いで芙蓉へ視線を流した。
「……え? 御免なさい、龍斗さん。俺、未だ一寸能く話が見えないんですけど……」
始める、の一言に芙蓉は無言で頷いたが、先祖達のやり取りが余り具体的とは言えなかった為に、何をどう始めるのか、龍麻には上手く飲み込めず。
「夜が明けるまで、一晩掛けての物の怪退治だ」
何時の間にか日暮れ色に染まった空を、道場の窓越し、龍斗は睨むように見遣った。