西新宿の道場に、夜の帳が下りた。

闇の支配が始まる刻限を迎えても、天井に規則正しく嵌め込まれている薄い曇り硝子の向こう側の蛍光灯は、四分の一程度しか灯されず、寒い室内は薄暗かった。

が、今の武道場が薄暗いのも寒いのも、季節の所為や灯りの乏しさのみが理由で無く。

──────薄暗さと薄ら寒さの中、微かに、チリン…………、と鈴のが響いたように一同には思えた。

空耳かも知れぬ鈴の音ののち、宵闇の先に、赤と橙が絡み合った色した鬼火が、ゆらゆらと揺れながら幾つか浮かんだ。

「百鬼夜行が彷徨う刻には早いが。やはり、似たようなモノなのだろうか」

「似ていようがいまいが、百鬼夜行であろうがあるまいが、差は無いかと」

そのと焔に、おや、と龍斗は微かに首捻り、彼の斜め後ろの芙蓉は、ひっそりと応える。

「……確かに。────カタシハヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ」

それに龍斗は小さく頷いて、何やら呪文のようなものを呟いた。

「龍斗さん……? それ、何です?」

「昔から、百鬼夜行除けのまじないと言われている言葉だ。……まあ、効かなかろうが、気休めに?」

「え。気休めなんですか……?」

「……んな呪い一つで、異形共が引き返したら世話ねぇぞ……、ひーちゃん……」

「そりゃ、馬鹿弟子の言う通りだな。『あんなん』が、そんな文句程度で還る訳ねぇ」

「ですよね……」

どんなに謎な言葉でも、『メルヘンの世界の人』の言うことだから何らかの力があるのかも、と龍麻は一瞬期待したのに、当の龍斗に気休めと断じられ、背を支え続けている京一にも、道場の直中の京梧にも、そんな訳あるかとあしらわれ、露骨に彼は落ち込む。

「……そんな顔すんなって……、何度も言ってんだろ……? 俺は……大丈夫だから……」

「………………うん……」

「龍斗。てめぇも、箸にも棒にも掛からねぇこと言ってんじゃねぇ」

だから、京一と龍麻は見詰め合う風になって、そのに、京梧は愛刀を操り始める。

流石に今のは餓鬼共が不憫だと、龍斗に嗜めをくれながら。

「気休めだとしても、もしも効くならば、と思ったのだが」

「…………。判ったから、口噤んどけ、唐変木」

────そんな風に、彼と言い合いつつの余裕を見せる京梧が斬り裂き始めた闇の向こうには、確かに、異形としか形容出来ぬモノ達が滲み始めていた。

否、異形、と一言で語ってしまうには、余りにも奇怪千万なモノが。

そして、グロテスクな物の怪達は、次第に目を凝らさずとも見えるようになり、徐々に数も増えていった。

もしもこの場に九龍がいたら、「内臓色した触手系異星人がラスボスな、SFスプラッタ……?」と言っただろうし、ミサならば歓喜の声を放ったかも知れぬ物の怪達を、京梧は顔色一つ変えず、立ち位置とて半歩とずらさず、捌くように滅していく。

「戯け共が、あの世まで後生大事に抱えてく積怨だの怨念だのってな、どうして、こうも気色悪りぃんだかな」

「世の全てを呪う程の恨み辛みなど、大抵は醜い。それが形を取るのだから、醜くなるのが道理だろう」

「……確かに」

「何を呪い祟ろうと、この世までも道連れにして良い筈は無い。少なくとも私には、そのような想いは醜いとしか言えない。件の刀工の、己が生涯を懸けて辿った路と自身の才への、血を吐くような嘆きには思う処もあるが」

「馬鹿言ってんじゃねぇ。精進が足りなかった頓痴気とんちき相手に、何を思ってやる必要がある?」

「…………京梧。それは、お前だから言える言葉だ」

──三十分かも知れない。一時間は経ったかも知れない。

京梧も龍斗も滑らかに口を動かしながらの、長いような短いような時が流れる間、京梧は、『極々普通』に刀を振るうのみだった。

けれど何時しか、彼の愛刀には、只人には見遣れぬ氣が籠った。──異形達は、又、数を増やしていた。

その内に、刀は青く光り始めた。──醜悪な姿のそれ達は、肥大していた。

膨らみつつ数を増す一方の異形達が放つ怨嗟の唸りは、やがて、確かに一同の鼓膜を震わせ、

────剣掌・神氣発勁」

遂に彼は、『技』を使い始めた。

誰にも現在時刻を確かめる暇もゆとりも無くなった、恐らく、もう間も無く夜半の時分。

龍斗や龍麻達の体感通りなら、京梧が抜刀してより優に四時間以上が経とうかと言う頃。

「剣掌奥義・円空旋っ」

彼の振るう奥義は疾っくに段階が上がっていて、肩で息をする姿が目立ち出していた。

道場の薄暗さの所為で、神殿下からでは面の具合までは窺えなかったが、疲労が色濃く浮かんでいるだろうのは、容易に想像出来た。

「京──

──うるせぇ。黙ってろ」

故に、長らく口を噤んでいた龍斗はその背へ呼び掛けたけれど、京梧は不機嫌そうに、案じる連れ合いの声を遮る。

「高が二刻と少しだろうが。面倒臭せぇだけで、合戦に比べりゃ序の口。未だ、芸当の一つや二つ出来んぞ。────剣掌・鬼剄!」

「…………何で、馬鹿シショーが、鬼剄、使えんだよ……」

「馬鹿弟子に使える技が、俺に使えねぇ訳ねぇだろ。お前から技を盗むなんざ朝飯前だ。悔しかったら、こっから先、目ん玉引ん剥いて能く見てやがれ」

けれども、彼は敢えて、曰く『芸当』を披露してみせ、虚ろながら拗ねたように呟いた京一に宛てて含み笑いを送ってから、ダン! と床板を踏み締め直し腰を落とすと。

「法神初伝・雪華っ」

中段に構えた得物を振り抜き、技が生んだ幻の雪華と共に、大口を開いて足許から競り上がって来た異形を叩き伏せ、

「中伝・陽炎細雪!」

目にも止まらず返した刀で、蛍火そっくりの淡い光を引きながら、凍えさせた次の異形を斬り捨て、

「奥義・霞雪嶺っ!!」

ふい、と真正面に出現した一際巨大な化け物を、凍氣としか言えぬ真っ白なそれで一刀両断にした。

「この全て、百回に百回完璧に出来たら、ちっとだけ認めてやってもいいぜ、馬鹿弟子」

「……出来んに決まってんだろ……。つーか……いい加減認めやがれ……」

「未だ、百回やって九十八回程度だろうが。生意気言ってんじゃねぇ、不肖の弟子のくせしやがって」

それでも尚、京梧の刀の先からは淡い光と鋭い冷気が零れ続け、弟子を小馬鹿にしながら、彼は、得物を青眼に構えたが。

刹那、ふらっとその背は揺れ、座っていた腰が崩れ掛けた。

「京梧っ!」

…………口先とは裏腹に、限界が近かったのだろう。

咄嗟に踏ん張り直したものの、彼の姿勢も構えも乱れたままで、バッと立ち上がった龍斗は、京梧の傍らに駆け寄り拳を振るった。

「秘拳・朱雀っ」

途端、辺りを火焔が覆い、京梧に襲い掛からんとしていた異形達は悉く滅したけれども、直ぐに、夜半の濃い闇の中から新たな異形は湧いた。

「……あ………………」

後から後から、引きも切らず湧き続ける化け物達へ、龍斗は再び技を振るおうとしたが、『四人分』を支える今の彼には無謀な行為で、胸と腹を押さえ、その場に踞ってしまう。

「龍斗さん!」

「龍斗様!」

道場中に、龍麻と芙蓉の悲鳴が響き、甲高く叫んで走った芙蓉が、迫り来る異形達を退けつつ龍斗の体を引き摺るも、京梧の身も、いまだふらついており……────

 正眼と青眼の違い=正眼→喉前で構える 青眼→左目前で構える。