未だ辛うじて未明と言える頃、天香学園内の阿門邸に帰り着いた車より転がり出て、這々の体で傾れ込んだ屋敷の居間のソファに、九龍は、ベロン……、と身を投げた。
「危なかった……。マジで危なかった…………。あそこで、たか子先生が怒鳴ってくれなかったら、御門さんとJADEさんと壬生さんと弦月さんに、とんでもない目に遭わされて、無理矢理口割られる処だった……」
「…………ま、相手が悪かったと思うんだな。口を滑らせがちな九ちゃんが、余計な事を一言も洩らさなかっただけ、上出来だ」
「確かに、あれでは相手が悪いとしか言えんな。流石に、お前達に同情せんでもなかった。……と言うか。葉佩も皆守も、秘密を抱え過ぎではないのか」
甲太郎も、やれやれ……、と九龍の隣に沈み込み、疲れたような顔の阿門は苦笑を浮かべる。
「仕方無いっしょ。兄さんや御隠居さん達が、秘密の塊なんだからさ。俺と甲ちゃんに、直接の非はありませーん……。……尤も、今回は、俺が迂闊だった所為だけどね。──あ、そりゃそうと、帝等。あんな騒ぎに巻き込んじゃって、ほんっっと御免な。でも、帝等が手伝ってくれたお陰で、無事に新宿まであの妖刀も運べたし、何とかはなったから。ありがとな、帝等」
「……いや。そこまで言われる程の事では無い」
「素直に受けとけ、阿門。…………又、一つ借りだな。悪い、何時も」
「だから……。…………まあ、いい。お前達がそう言うなら、貸しで済まそう」
デロデロと、溶け掛けの氷菓子のようにだらしなく寛ぎながらの九龍と甲太郎に揃って感謝され、困惑頻りになった阿門は曖昧な表情を拵え、
「お帰りなさいませ、坊ちゃま。九龍様も皆守さんも、無事のお戻りで。皆様、お疲れ様でした」
そこへ千貫が、緑茶に葛餅と言う、渋いチョイスの間食セットを運んで来た。
「あ、千貫さん。千貫さんも、ほんっっっ……とーーーに、有り難うございました。お陰で助かりましたぁ……」
「いえいえ。この上の礼など、過分でございますよ。貸しはお返し頂くと、申し上げました」
「……そーでした…………」
今回の騒動解決の最大功労賞かも知れない影の協力者にも、九龍が深々と頭を下げれば、又も、化け狐に能く似た笑みを湛えた敏腕執事殿は、間食セットを整えて辞して行く。
「…………あー、マジで怖い。何時か千貫さんに返さなきゃならない借り。────あ。そう言えば」
退室した彼の背を横目で見送り、怖いよぅ……、と泣き真似をした九龍は、ふと、真摯な目をし、真顔になった。
「九ちゃん? どうかしたか?」
「うん。怖いで思い出したんだけどもさ。……甲ちゃん。何で、大山祇神社でも八王子でも、俺まであの妖刀に呼ばれたんだと思う? そこが、未だに一寸怖くってさ。…………龍麻さんが、あの手のモノに呼ばれるのは解るんだよ。龍麻さんの『力』は、『ああ』だから。京一さんや御隠居達でも納得出来る。でも、俺は、『兄さん達の世界』には片足突っ込んでるだけなのに、どうして、妖刀は俺を狙い撃ちしたのかな、って思うと…………」
「……『怖い』、か?」
少々面を強張らせた彼が気にし出したのは『そんな事』で、言いたい事は判るし、理由に対する心当たりが無くもないが……、と甲太郎は眼差しを伏せた。
「うーん……。怖い……ってぇか……、正しくは、理由を求めたくなる、みたいな……?」
「…………片足を突っ込んでいるから、が理由ではないのか?」
そして、『理由が欲しい』と洩らした彼へ、阿門は、そここそが訳では、と。
「……だと、いいんだけどね。それだけが理由なら、いいんだけど。何となく、妙に引っ掛かってさ。……気にし過ぎかなあ…………」
「────多分、答えは出ない。少なくとも、今は未だ、な」
だから、九龍は溜息を吐き、甲太郎は抑揚無く言って、
「……それもそうだね。────葛餅食べよーっと」
ならば、やはり少なくとも今、悩むのは止めようと、表情を塗り替えた九龍は、いそいそ、葛餅の皿を取り上げた。
バチリと、スイッチが入ったかのように目覚めた龍麻の目に最初に飛び込んできたのは、真っ白な天井だった。
「京一!?」
──ああ、見覚えがある。桜ヶ丘の病室の天井だ、と思った直後、どうして桜ヶ丘に? とも思い至れた彼は、ハッと顔色を変えて飛び起き、忙しなく辺りを見回す。
すれば、開け放たれていた仕切りカーテンの向こう側の病床に、横たわる京一の姿があって、龍麻は裸足で駆け寄った。
「京一? 京一……?」
「………………ん……? ……龍麻…………?」
眠っているだけなのか、それとも意識が無いのかの判別が付かず、思わず呼び掛けながら揺り起こせば、億劫そうに京一の瞼は持ち上がり、鳶色の瞳は龍麻を捉えた。
「京一! ……良かった、無事だったんだ…………」
「俺なら、大丈夫だって言っただろ……? どうにもならねえ、って。心配なんか、しなくて平気だ。そんな顔もしなくていい。……な? ひーちゃん」
安堵と、捨て切れない不安が綯い交ぜになって、泣き掛けの顔で抱き付いてきた龍麻を、両腕でしっかりと抱き留め、京一は、彼の耳許で囁くように。
「……うん。うん…………」
「だから。泣くなよ、ひーちゃん。……そりゃそうと。俺、何で桜ヶ丘
「さ、あ……。俺にも判らないんだよ。どうして、俺達二人揃って、桜ヶ丘にいるんだろう?」
「…………あのな、ひーちゃん。お前、夕べの事、何処まで覚えてる?」
「それが……。……龍斗さんが、胸が痛いって言って踞っちゃった辺りから先は、所々しか記憶が無いんだよね……。京梧さんが、本当がどうのって、見たことも無い天地無双を使ったのと、京一が同じことして見せたのは覚えてるんだけど、それ以外は……。特に、自分が何をどうしてたのかが、さっぱり……。……ねえ、京一。まさか…………」
「その、まさか、だ。何でかは判らねえけど、龍斗サンと芙蓉ちゃんが異形に襲われそうになった瞬間、『あいつ』が起きた。────ひーちゃん。……龍麻。平気か? お前、大丈夫だよな?」
「……う、ん…………。でも……御免、京一。大丈夫って、言い切れない…………」
出来事が終わるよりも早く気を失ってしまった彼等は、先ず、桜ヶ丘の病室にいる自分達に戸惑い、次いで、龍麻の夕べの記憶の一部が欠損しているのに戸惑い、京一から聞かされた事実に、龍麻は身を震わせた。
「例え、大丈夫じゃなくても。お前には自信が無くても。俺が、何とでもしてみせるから。お前は心配しなくていい。……大丈夫だから。絶対に、平気だから」
どうしよう……と、より縋り付いてきた震える体を強く抱いて、京一は宥めた。
「判ってる……。京一が傍にいてくれれば、平気だって判ってる……」
「……ああ。──案外、大したこっちゃ無かったのかも知れねえし。お前にとっちゃ、この上無く大事な内の一人な龍斗サンが危なくなって、ブチ切れちまった弾みだったのかも知れない。但、ルイちゃんに拵えて貰ってる何時もの符まで無視して、本当に唐突に『あいつ』が起きちまったから、一寸だけ、心配でさ。……暫くの間だけでもいい。何か気になる事があったら、隠さないで直ぐに言えよ?」
「それも判ってる。京一には、隠さないでちゃんと言うよ。……有り難う、京一。──ああ、それよりも」
「ん?」
「京一も、本当の天地無双、使えるようになったね」
「……お陰さんで。ま、馬鹿シショーの奴は、落第点とか何とか、偉そうにほざきやがったけどな」
だが、やがて。縋り付く為の腕も、宥める為の腕も、唯々、互いの生命
「京梧さん、京一以上に口が悪いから。……怪我の功名だとしても、それだけは良かった。俺は、一寸悔しいけど」
「お前だって、『秘拳シリーズ』増えてんだろうが。おあいこだろ」
少しずつ普段の調子を取り戻し始めた彼等は、くすくす笑いながら深く抱き締め合い続けた。
病室のカーテンの隙間から、冬の朝日が射し込む中で。