余りにも怒濤だった幕末のあの頃や、己達が再び巡り逢う為には、何方かが刻を越えてみせるのが最低条件、という、やはり怒濤だった運命とやらも遠くなり、仲睦まじく、現代の東京は新宿で暮らし始めて約四ヶ月目になる京梧と龍斗の日々は、ほぼ、縁側の『ご隠居』モードで、その日も彼等二人は、朝からのんびり隠居モードだった。

────何の因果か、双方共に、刻を駆けるなどという、先ず有り得ない人生経験を積んでしまったので、龍斗は実年齢が不明になってしまったし、京梧に至っては、諸々の事情で実年齢がこの世の謎と化してしまったが、二人が壮年と言われる年代に該当するのだけは確かで、大抵の場合、その年代の人々の朝は、男女問わず激しく慌ただしいのが常だが、『ご隠居モード』な彼等は、大体、午前六時前後には起床しているにも拘らず、龍斗の主張に基づき部屋の隅に安置されている小さな神棚を拝んだり、武道家らしく朝の鍛錬をこなしたりしてのち、のんびり、狭い部屋で茶を啜り始める。

二人揃って、うるさいし、何が面白いのかさっぱり判らないと思っているテレビを、その時ばかりは『現代歴』が浅い龍斗の現代社会学習の為に点けて、熱い茶を啜りながら、ほーー……、っとテレビ画面を眺めつつあれこれと言い合って、世間様の大半が、満員電車だの鮨詰めのバスだのに揺られている頃合い、漸く、彼等は朝餉の支度に取り掛かる。

……と言っても、京梧は、男子厨房に入るべからずの典型で、しんば台所に立ったとしても、何をどうしたらいいのかも判らない、主婦の天敵のような駄目男だから、食事の支度その他は龍斗の仕事で──龍斗も龍斗で、判らないことがあると直ぐに子孫に救いを求めるので、そこそこの確率で、龍麻と京一が助っ人に入るが──、彼が拵える、古き良き時代そのものな朝食を、ゆっくり、ゆっくり、噛み締めるように摂って、それから再び、半ば日課になっている思い思いのこと──刀の手入れだったり、家事だったり──を、彼等はそれぞれこなす…………のだが。

何時も通り、朝からのんびり隠居モードだった彼等のその日は、そこからが少々違った。

「ひーちゃん。ちょいと、その辺をぶらつきにでも行かねぇか?」

ベランダの物干竿一杯に吊るした洗濯物を眺め上げ、うむ、と言わんばかりに一人頷き、満足そうな、晴れ晴れとした顔付きになっていた龍斗を、その日の午前遅く、京梧は散歩に誘った。

…………そんな風に、京梧が龍斗を誘い出すのは度々あるが、逆を返せば度々のことでしかない。

何故ならば、龍斗が、超が付く程の迷子体質だから。

一般的に説明するなら、精霊の皆さん、と例えるのが一番通りがいいだろう、龍斗にしか存在確認が出来ない、彼曰くの『みな』との会話に勤しむ余り、彼は、一歩家を出た瞬間から既に迷子、という悪癖の持ち主で、京梧が付いていても、一寸目を離した隙にとんでもない方に歩き出しているのがデフォルトな『メルヘンの世界の人』なので、京梧は今は未だ、龍斗が出歩くのを余り好まぬし、連れ立って出掛けるのも余り好まない。

それは、龍斗も承知していることで、己にどうしようもない迷子癖があるのも、人混みが苦手なのも自覚しているから、彼自身、京梧が良いと言わなければ、早々は出掛けようとはしない。

況してやこの数日、キレるくらい過剰に世話を焼き続けた京梧に、前触れもなく散歩に誘われるとは思ってもいなかった龍斗は、どうだ? と問われても直ぐに返事が出来ず、窺うような声を出した。

「ぶらつき? 散歩に行こうということか?」

「ああ。その辺ぶらつき終わる頃にゃ、昼飯時になるだろうから、ぶらぶらして、何処かで蕎麦でも食わねぇか?」

「それは嬉しい誘いだが、良いのか?」

「勿論。お前が霍乱でぶっ倒れて泡食っちまって、この数日、ずっと家ん中に押し込めてたからな。お前だっていい加減、ちったぁ外を拝みたいだろ?」

「…………もしかせずとも、散歩の誘いは、私の機嫌取りか?」

「……ま、そういう下心もある」

「京梧。お前は時々、正直過ぎる。だが、折角のお前からの誘いだし、出掛けたいのは正直な処だから、機嫌取りだとしても、乗らせて貰おう」

どういう風の吹き回しだろうかと訝しんだ龍斗に、京梧はそこそこ正直に思うことを白状し、そういう魂胆か、と苦笑しながらも龍斗は、彼の誘いを受けることにし。

龍斗の御機嫌取りの為の散歩に、彼等は出掛けた。

正午が近くなりつつあるとは言っても、未だ午前の内だったのに、散歩に発って直ぐの彼等を、真夏の、きつい日差しが襲った。

刺すようなカンカン照りに、二人揃って、この日差しは……、と思わなくもなかったけれど、龍斗は、「何とかなるだろう」との、誠に大雑把な発想で、京梧は、「ひーちゃんが喜ぶのは緑の多い場所だから、多分平気だろ」との、いい加減な発想で、強い日差しを受け流し、ほてほて、逃げ水の揺れるアスファルトの道を辿った。

京梧は龍斗の左の手首を引っ掴みながら、龍斗はそんな京梧に引かれつつ、早速話し掛けて来た『皆』と傍目には不気味な独り言としか聞こえぬ会話を交わしながら、暫し行き。

龍斗が『翻訳』する『皆』の会話の内容に飽きてきた京梧が、やる気の欠片も感じられない生返事をするようになった頃、彼等は新宿中央公園に辿り着く。

大都会の直中にあるのに、広くて緑豊かなそこは、龍斗のお気に入りの場所だった。

何でも、龍斗に言わせると、新宿中央公園や園内の熊野神社や、花園神社や新宿御苑のような、所謂『人々の憩いの場所』は、緑が豊かな故、『皆』の数も多く、存在も『濃く』て、彼には大変居心地がいいらしい。

何時間でも、公園内や神社の境内の緑に埋もれて、『皆』と語らいつつ過ごせるくらいに。

尤も京梧には、只の公園や只の神社としか思えないのだが、龍斗が喜ぶから、中央公園は彼等の散歩コースの定番の一つで、例えるなら、ご褒美を目の前にしたワンコのようになった龍斗と、ご褒美ー! とはしゃぐワンコを諌める飼い主のようにならざるを得なかった京梧は、少々、平日の公園内を散策したり抜け道代わりに使っている人々の注目を浴びつつ、公園の奥に向かった。

──東京都庁近辺と西新宿四〜五丁目辺りを繋ぐ、ふれあい通りで南北に分断されている公園北側には、区民の森と呼ばれている一画がある。

……まあ、森、と言うよりは、林と例えた方が相応しい感があるが、緑豊かな公園の中でも、一際緑溢れるそこに彼等は踏み込み、一先ず、『飼い主』は『ワンコ』を野放しにした。

ここにいる限り、どこにも行かない──即ち、迷子にはならなかろう、と。

そんな『飼い主』、もとい、京梧の思惑通り、龍斗は、遊歩道の向こう側の木々の根元を覆う下草の間に潜り込むように座り込んで、この上無く幸せそうに、彼にしか視えないし話せない皆さんと、ほんわりほわほわ話し始めた。

遊歩道の片隅に置かれている木陰のベンチに陣取った京梧の耳には龍斗の声しか届かないから、彼と『彼等』が何を語らっているのかの正確な処は判らなかったが、「お前等がしてるのは、絶対、『この世』の話じゃねぇだろう……」と、仄かに冷や汗が掻けるような単語が途切れ途切れに聞こえてくる中、日陰は多少過ごし易い、と思いつつ、彼は。

当分、龍斗のことは放っておいても大丈夫、と判断し……、つい、うっかり瞼を閉じて、昼寝体勢に突入してしまった。