不甲斐無くも、成り行きに腰を抜かした自分を京一に引き摺って行って貰って、恋人のかつての自室に傾れ込んで直ぐ、龍麻は部屋の真ん中にへたり込んだ。
「ひーちゃん、ホントに大丈夫か?」
「大丈夫は大丈夫……。おじさんやおばさんには、俺達のことバレちゃってるんだろうって思ってたし、三月の時、おばさんに大丈夫だからって言われたのも憶えてたし、二人共ああいう性格だから、何処かで期待してた部分がなかったって言ったら嘘だけど、やっぱり、色々は言われるんだろうな、とか、幾ら何でも許して貰える筈なんか無いよな、とかって諦めてたから、まさか、あんな風な展開辿るとは思わなくってさー……。……少し、安心して、でも拍子抜けして、腰も抜けちゃった……」
腰が抜け、足にも力が入らず、部屋の床と友達になりそうなくらい前のめりにしゃがみ込んだ龍麻の顔を京一が覗き込めば、龍麻は、平気、と言いながら、何処となく虚ろな笑いを浮かべてみせた。
「あんまり、平気そうに見えねえぜ?」
「大丈夫だってば。ホント、拍子抜けしちゃっただけだから」
蓬莱寺家の玄関を潜る直前まで脳裏に描いていたド修羅場になることもなく、あっさり、針の筵の如くな時間は過ぎ去ったのに、喜ぶに喜べないのだろう笑みだけを見せる彼に京一は苦笑を拵え、故に龍麻も、くどい、と苦笑を返し…………、が。
いきなり、彼は涙ぐみ始める。
「ひーちゃん?」
「おじさんにも、おばさんにも、ああいう風に言って貰えて、凄く嬉しいんだけど……嬉しかったけど……、いいのかな……。本当に、良かったのかな……。何か、却って申し訳ない気持ちが強くなっちゃったって言うかで……。俺…………」
「ひーちゃん、気にし過ぎ。それこそ、親父やお袋の性格、嫌って程判ったろ? 二人がいいっつってんだから、いいんだっての。これ以上気にすんな。味方してくれたんだって思っとけ」
「うん…………」
「判ったら、シャキッとしろ。それに、泣くにゃ未だ早いし、ドツボ嵌るにも早いぜ。月末にひーちゃん家行かなきゃ、この話は終わらねえんだから、ああだこうだは、それからだ。今日は、今日のことだけ思っとけよ。良かった、って」
出逢いの時より何年経っても、一寸したことで直ぐにドツボに嵌って、男のくせに、と言いたくなるくらいベソベソすることもある龍麻が『何時もの』を始めたのを見遣って、片膝付き、彼と視線を合わせた京一は、「又、始まった」と一旦は苦笑したものの、今日ばかりは言ったら可哀想かと思い直し、彼の頭をそっと抱き込みながら慰めてやり、
「…………うん……」
未だ、自分達自身でそうしようと決めたことの全てが終わった訳ではないのを思い出した龍麻は、こくり、と頷き返して。
階下から、出掛けるから下りて来いと、甲高い声で京一の母に呼ばれるまで、『月末にやって来る恐怖』を今だけは忘れ去る意味も込めて、今日の安堵だけを噛み締め、二人は寄り添う風にしていた。
息子達のプライベートには一切の興味を示さず、マイペースのみを貫き通し、そのくせ、京一や龍麻でも、「物騒だ……」と呟きたくなるような会話を平気で交わす京一の父母との食事に挑んだ日より、大凡、二週間程度が過ぎた、五月最終の週末。
若干不安だった天気に恵まれたその日、半月前よりも尚畏まった格好をした二人は、東京駅から、午前早くに発つ長野新幹線に乗り込んだ。
終点一つ手前の上田駅で下車し、路線バスに数十分揺られ、小さな田舎町の町役場前でバスを降りれば、町役場の駐車場に、龍麻の育ての父親──実父・弦麻の弟で、龍麻との本当の関係は叔父に当たる、歳の頃は四十代半ば前後と思しき人が、車で迎えに来てくれていた。
龍麻が地元で暮らしていた頃には存在していた、彼の実家近くまで行くバス路線は、数年前に廃止になってしまったそうで、こんな田舎ではタクシーなど捕まえるのは不可能だし、徒歩では遠過ぎるからと、わざわざ出向いてくれた龍麻の父は、京一の父とは又違う意味で穏やかそうな、歳の割にはおっとりしているらしいのが手に取るように判る、京一は思わず、「ああ、紛うことなく緋勇一族……」と呟いてしまったような人だった。
そんな、怒る処など余り想像出来ないタイプの龍麻の父は、前々から話だけは散々龍麻より聞かされていた、電話では話したこともある京一が、息子と共に訪れたのを嬉しく思っているのか、いそいそと息子達を車に乗せ、ハンドルを握って直ぐ、様々に話し始めた。
が、『今日のメインイベント』の所為で、新幹線に乗り込んだ辺りから既に揃って酷く口が重たかった二人は、何とか受け答えするだけで一杯一杯で。
少々強張り気味の声で彼の話に相槌を返しつつも、京一は柄にもなく、一応きちんと挨拶はしたつもりだが、本当に失礼はなかっただろうか、何かやらかしてる気がして仕方無い、と腹の中ではネガティブなことを考え続けており、龍麻は龍麻で、せめて、例の話を切り出すまでは、どうか、義父
…………そういう訳で、龍麻の実家の駐車場に入るまで、車内には何処となくギクシャクとした空気だけが流れ続けたけれど、龍麻の祈りが通じた訳ではないが、彼の父は、
「ここは、本当に田舎でねえ……。東京からでも、そこそこの長旅になってしまうから、二人共疲れただろう? さあ、入って入って。お母さんも待ってるから」
と、あくまでも、人の良さそうな朗らかさを振り撒きつつ、おっとりとしていた。
路線バスを降りた町役場付近や、通りすがった、真神学園に転校するまで龍麻が通っていた明日香学園付近は、未だ、地方都市の片隅という雰囲気が其処彼処に漂う、『田舎の中の本当に小さな都会』と言った感があったが、龍麻の実家付近は家々もまばらで、懐深そうな山も直ぐそこで、目に付くのは木々の緑と、至る所にある果樹園や畑ばかりで、新宿生まれで新宿育ちの京一には、「こんな田舎、未だ、日本にあったんだ……」との感想しか抱けなかったくらいド田舎だったから、龍麻の養父のおっとりさ加減──正しくは、緋勇一族のおっとりさ加減は、環境が齎したのかも知れない。
「お帰り、龍麻。いらっしゃい、京一君。お待ちしてたのよ。お会いしたかったの。京一君には高校の時から、ずーっと、龍麻がお世話になりっ放しでしょう? 直接お礼も言いたかったし、新宿に転校してからの龍麻のこととか中国の話とか、色々と聞かせて貰いたかったの」
──そうして、そんな彼に促されるまま、京一の生家より尚古めかしい家屋の敷居を若い二人が跨げば、パタパタとスリッパを鳴らしながら、夫と同い年くらいに見える龍麻の養母が走り出て来て、満面の笑みを浮かべつつ、彼女は、ぬうっと玄関先に突っ立ったままの彼等へ話し掛け始め、
「本当にね、龍麻ってば、何時も何時も、東京で出来たお友達の話ばかりするのね。京一君の話なんて、直接会うのは今日が初めてな気がしないくらいに、何度も──」
「──お母さん。その話は後にしよう。京一君も龍麻も疲れてるだろうから、早く中に入れてあげないと可哀想だよ」
「……あ、御免なさい。そうだったわね。──さあ、二人共、上がって」
夫に待ったを掛けられるまで、本当に本当に嬉しそうに喋り続けていた彼女は、慌てて、息子達を奥へと案内した。
残り数日で五月も終わると言うのに、この辺りは未だ冷え込むことがあるのか、部屋の片隅に灯油のストーブが置かれたままな、山間の浅くて短い春を引き摺っている風な居間へと息子達を連れて行く最中も、彼女は弾むような声で、夫や若い二人にあれやこれやと話し掛け続け、龍麻の父も、久し振りの息子の帰郷を喜んでいるのか、飽きることなく、それに付き合っており。
「……なあ、ひーちゃん」
「…………何?」
「ヤバい。お前の親父さんとお袋さん見てるだけで、俺、一寸挫けちまいそうになる…………」
「この間は俺がそうだったから、気持ちは判るけど……。判るけど、やっぱり、今更そういう訳にも……」
「だよな…………」
実の関係は叔父と叔母なれど、赤ん坊の時から育てた龍麻のことを、本当に大切に思っているのが一目で判る夫婦を前にして、罪悪感が俄に膨れ上がってしまった京一は、龍麻にしか聞こえない小声で泣き言を垂れたが。
例え、肉親としてそんなにも龍麻を愛している彼等に酷なことを告げた挙げ句、許されようが許されまいが、自分は龍麻を連れて行くのだと突き付けることに呵責以上のものを感じるとしても、龍麻の言う通り、もう、「こうするのだ」と決めたからには、今更挫ける訳にもいかないと、改めて覚悟を決め直して、京一は、シクリと鈍く痛み始めた胃の上を、そっと押さえた。