今日日の住まいにしては立派な内だろう、と天戒にも思えた道場二階は、階段近くの一室に引っ込んだらしい京梧が、時折、別室の龍斗に向けて何やらを声高に告げているのが聞こえるのみの、いい歳になった大人二人だけの住まいであるのを如実に物語る静けさに満たされていた。

が、別の意味では大層賑やかだった。

時節の所為なのか何なのか、魂のみの己と同じ世界に住まう存在や、もう少し『高次』の存在や、果ては、地の底の住人なのでは? としか思えぬモノ達までもが、あちらこちらに窺えて、そんなモノ達は皆一様に、龍斗に構って貰いたそうな風情を見せており、「これが、龍の常の景色なのか」と、眼前の思い掛けぬ有様に天戒は瞠目する。

……天寿を迎え、理に従い常世へ逝き、魂と化して数十年。

転生もせずに見送り続けた歳月の中で、龍斗が持って生まれた質のことを知った時、天戒の中に真っ先に生まれた想いは、「水臭いにも程がある」だった。

人には視えぬモノを視て、人に非ざるモノと語らえると言うだけで、『緋勇龍斗』の何が変わる訳でもないのに、遣わなくても良かった気まで遣い、そんな些細なことを、確かに仲間だった己達にまで隠し続けたなどと……、と。

まさかとは思うが、ひょっとして自分達は、そういう意味で、最後まで彼に信じて貰えなかったのだろうか、とすら天戒は考えた。

…………だが、こうして今年の精霊会を切っ掛けに、真正面から『緋勇龍斗が見遣っている常の景色』と向かい合った彼は、暫しの瞬きを繰り返したのち、言うに言えなかった訳だ……、と苦く笑んだ。

これは、ヒトが視て良い景色ではない。

────故に、そうと悟った天戒は微苦笑に続いて溜息を洩らし、ほんの少々だけ、龍斗に対する憐憫にも似た想いを胸の片隅に掠らせながら、真っ直ぐ続く廊下を辿った。

板張りの、存外に広いそこの半ばを過ぎて直ぐの、襖が開け放たれたままの部屋に龍斗はいた。

滅多には使う者もいない客間か何かなのだろう、家具調度は見当たらぬ室内の奥に、立派な精霊棚が設えてあって、所狭しと並べられた供え物の隙間に、龍斗は何とか、盆用の落雁を更に供えようとしていた。

『龍──

「……おや、天戒ではないか。久しいな」

無防備に曝されている、あの柳生崇高や邪龍との死闘をも制した者とは到底思えぬまでに華奢な背へ、生前通りに声掛けるのは……、と躊躇いつつも、天戒が、ぽつり、口の中でのみ彼の名を呟き掛ければ、ん? と言う顔付きになった龍斗は、肩越しに振り返り様微かに目を瞠り、甚く嬉しそうに微笑む。

「訪ねて来てくれたのだな。精霊会の支度を整えておいて良かった」

『お前の、その支度と迎え火のお陰だ』

そのまま彼は、ほら、とでも言う風に、手にしていた器ごと落雁を差し出してきて、『この身の上で、以前のように食えと言うのか、お前は』と、呆れた顔付きで天戒はそれを辞退し、

「ならば、やはり供えておこうか」

『…………そうしてくれ』

ぎゅむっと押し込むように、四苦八苦して精霊棚に落雁を供え終えた彼と、暫し話に花を咲かせたが。

つい先程の、己を生者の如く扱った様から、語られることの端々から、本当に、龍斗の中では『ヒトとヒト以外』の垣根が曖昧なのだと思い知らされ、再び、ズキリと胸が痛むような心地を覚えた天戒は、やがて、その痛みを苛立ちに変えた。

否、と言うよりは、遠い昔の憤りを思い出した、と言うべきだろう。

眼前の彼に対してでなく、京梧に対しての。

────懐かしいあの頃、京梧と龍斗の仲が過ぎる程に良く、又、妙に馬が合う風だったのは、仲間達の誰もに一目瞭然だった。皆、二人は仲睦まじい兄弟のようだ、と思っていた。

だが、今も尚今生を生きている人狼の犬神杜人、龍閃組の頭目だった時諏佐百合、そして天戒の三名には、二人の『本当の仲』が悟れていた。

京梧と龍斗は、情欲をも伴う想いを交わし合った仲なのだろう、と。

黙していただけで、他にも彼等の実の仲を解っていた仲間達はいたのやもだが、天戒の知る限りでは、自身含めた三名のみが、『そう』と弁えており。

あの時代の陰陽の戦いに決着が付いた直後に迎えた翌年の正月も終わらぬ内に、京梧が、龍斗の前からも自分達の前からも消えてしまった、と知らされた時、天戒は、勝手に旅立ってしまった不義理な馬鹿に怒りを覚えた。

京梧にとっては『仲間の枠』を出なかったのだろう己達は兎も角、想いを通じ合わせていた筈の龍斗まで置き去りにするとは、一体何事だ、と。

余りに腹に据え兼ねて、全くの筋違いだと判ってはいたが、「どうして、あの馬鹿を紐で繋いでおかなかったのか」と、龍閃組の者達に八つ当たりをしに行ったことさえあった。

…………しかし、天戒には、いなくなってしまった馬鹿へ怒りをぶつけ切ることは出来なかった。

要するに、馬鹿の馬鹿さ加減に悪態をつく程度で、彼のそれは打ち止めになった。

愛しい者を打ち捨ててでも、己が為だけの道──剣の道のみを選んで往った京梧の気持ちが容易に理解出来てしまうくらい、天戒も又、愚かで不器用だったから。

だから彼は、「必ず、もう一度この新宿で逢おうと、京梧と約束したから」と頑に信じ、健気に帰りを待ち侘び続けつつも、杳として京梧の行方が知れぬのを深く思い煩っているのが透け見える龍斗を、気遣うことに専念した。

けれども、更に時が経って、「かつては憎み抜いた徳川幕府の手先の、龍閃組の頭目だった者なのにな」と思いながらも百合の許を訪ねては、京梧や龍斗絡みの愚痴を語り合うと言うのを、幾度繰り返したか判らなくなってきた頃、京梧が、この時代から消えてしまった、と知った天戒は、再び、勝手に消えた馬鹿への怒りを燃やした。

好き放題に生きる道を選んだ挙げ句に、その体たらくか、と。

気丈に振る舞いつつも胸の内を寒くし、ひたすらに貴様の帰りを待っている龍斗はどうなる、と。

瓦版屋の京香からそれを知らされた直後から、どういう訳か、それまで龍斗が見せていた憂いのようなものが綺麗さっぱり消え去ったのも、却って彼の怒りを煽った。

少なくとも天戒には、龍斗のそんな態度は、京梧が辿った運命を受け入れ、諦めを付けた、としか思えなかったから。

一体、どれ程の思いで、焦がれ続け、そして待ち侘び続けた『彼』を諦めたのだろう、と想像するだに、我がことのように胸が痛んだから。

尤も、天戒が、いなくなってしまった馬鹿に覚えた二度目の憤りも、そう長くは続かなかったが。

本音の部分では、刻を越えてしまったことに関しては京梧のみに非がある訳ではない、と彼にも判っていたし、それより更に時が経った明治五年の正月二日──奇しくも、京梧が龍泉寺を去ったのと同じ日、誰にも理由わけすら告げず、龍斗も姿を消してしまったから。

────但。

魂のみとなって久しい身の上でも、あの頃のことは、あの頃に覚えた想いは、鮮明に思い出せる為。

龍斗と話し込んでいる内に、昔々は抱えていた『馬鹿に対する怒り』を甦らせてしまった彼は、段々と、些少なりとも『あの馬鹿』に思い知らせてやらなければ気が済まなくなってきた。

…………気持ちは解る。その道を選んだ訳も解る。同じ立場に置かれたら、きっと、己とて似たような愚かさを曝すのだろう。

龍斗と二人交わしたと言う契りを守ったのも、剣の道だけがおのが全てと定める、あの剣術馬鹿としか言えぬ男が、龍斗に寄り添う風に生きる人生を選んだのも、褒めてはやるが。

ヒトが視て良い筈無い景色を常とするのを、「私にとっては家族に等しい」と言い切った仲間達にすら打ち明けられずに、一人きりで抱えつつ生きていた龍斗が、それでも注いだ想いを受け取っておきながら、一度は彼を置き去りした過ち分くらいは償わせてやる。……と、意気込み始めもした。

『龍。頼みがある』

「頼み?」

『俺が、こうして来ていることを、京梧には黙っていて貰いたいのだ』

「お前が、そうして欲しいと言うなら。……でも、何故?」

『少々、覗き見と言う野暮をしてみたいだけだ。その方が楽しいだろう?』

だから、天戒は。

心を許した者の言うことは、どんな与太でも一度はすんなり信じる龍斗を適当に言い包めて、彼が頼みに頷いた直後には、内心でほくそ笑んだ。

その一方で、何と無し、自分がやけに『何か』に対して向きになっているような気がしたが、思い違いだろう、と考えつつ。