「別に、京梧にくらい、お前が訪ねて来てくれたと報せても良かろうに」

とか何とか、ブツブツ呟きながらの龍斗に引っ付くようにして、『あの馬鹿』への意趣返しに燃え始めた天戒は、隣の間に向かった。

そこは茶の間のようで、彼の目には落ち着けると映る、が、今時の者達には時代錯誤も甚だしいのだろう生活感が漂うそこには、京梧がいた。

生前の天戒も決して人のことは言えなかったが、何時まで経っても、炊事洗濯は……、な口らしい京梧は、卓袱台に着いて特に何をするでもなく龍斗を待っていて、戻って来た彼の顔を見るなり、「腹が減った」と当然のように始め出し、そういう部分は昔通り碌でなしな彼の希望に沿うべく、いそいそと立ち働きつつも龍斗は幾度も天戒へ話し掛けそうになって、その度に、京梧には視えぬ魂のみの存在である彼は肝を冷やしたけれども。

京梧も京梧で、

「盆だから、何時も以上に『連中』で賑やかなのかも知れねぇが、程々にしとけよ、ひーちゃん」

と、一言さらりと言ったのみで連れ合いの挙動不審を流した為、以降は天戒も腰を据えて、『かつて盛大な馬鹿をやらかした馬鹿』を、心行くまで睨み付けてやった。

しかし、「どうやって、この馬鹿にあの頃の憤りをぶつけてやろうか」と心浮き立たせた彼が『馬鹿』に注ぐ眼差しは、何時しか睨みではなく凝視になり、悪戯を企む童の如くだった胸の内は、小さく萎む。

何故、『馬鹿』から目が離せなくなったのか、何故、何処となく頼りない心地になってしまったのか、どうにも見当は付かなかったけれど、徐々に気分が沈んでいくのは判って、天戒は、自分で自分に戸惑った。

動揺もした。

だが、何が己の心を揺らしているのか、どうにも判らなく。

もしかしたら、遠い昔々、『この馬鹿』に対して覚えた憤りは、自分が思っていた以上に根深かったのかも知れない、と思い込むことで、彼は、戸惑い揺れる己を振り切った。

江戸の終わりのあの頃から、京梧の言うことには半ば無条件で従っていたからか、それとも、「程々に」との釘刺しが効いたのか、夕餉の支度を整え終えた辺りから龍斗の挙動不審も収まったので、天戒は、馬鹿への意趣返しを始める頃合いか、と意気込んだが。

夕餉と言うよりは晩酌と言った方が相応しかろう整えがされた卓を囲み続ける二人を見比べていた彼は、困惑顔を拵えた。

──何をどうするにせよ、龍斗の目の前で、京梧に天罰を喰らわせるような真似は出来ない。

どんな小細工を労しても、そんなことをすれば、絶対に龍斗には悟られる。

彼のことだ、理由を打ち明ければ怒ったりはせぬだろうが、幾ら馬鹿の自業自得とは言え、流石に、骨の髄まで馬鹿に惚れ切っている彼の目を無視しての天誅は引け目を感じる……、と思ってしまったから。

故に天戒は困り、腕組みまでして悩んで、けれども直ぐに、例えば龍斗が風呂に立った隙を見計らって馬鹿に罰を当てれば良い、と思い付いた。

思い至ってしまえば甚く簡単だった解決法に、一人満足の笑みまで浮かべた彼は、そうと決まればと、茶の間の隅に踞る風に身の置き場を定め、ぼう……っと、嬉しそうに龍斗に纏わり付く精霊の一団を眺めながら、二人の晩酌に区切りが付くのを待った。

「……ああ、そうだ。ひーちゃん」

「何だ?」

「鳴滝の奴に頼まれてた急ぎの用があったのを、急に思い出してな。先に片付けてぇんだよ。一つ二つ、電話を掛けりゃ済むこったから、お前、今の内に風呂行って来い。そうすりゃ互い、改めてゆっくり呑めるだろ?」

…………好機は、予想外に早くやって来た。

酒も肴も幾らも嗜まぬ内に、何やらを思い出した顔付きになった京梧が、硝子の猪口を片手に龍斗へ首巡らしながら、仕事の話を始めたことによって。

「鳴滝館長に? 私がいない方が都合の良い話……と言う訳でもなさそうだが…………。……まあ、良いか」

手酌で満たしたばかりの猪口の中身を一息に煽った京梧は、ふいっと、顎で風呂場の方を示し、龍斗は大人しく腰を上げつつも、何故、それが私の風呂に繋がる、と言いたげな面になったが。

「風呂っつったのは、野暮用の所為じゃねぇぞ? 今夜は、久し振りに俺とお前の二人だけだから、何時、『その気』になってもいいように、ってな」

「子供達はおらずとも、精霊会の迎え火の夜だと言うに、お前は、そういうことばかり……」

冗談とも本気とも付かぬ笑いを洩らしながら京梧は下卑たことを口にし、面全体を呆れに染めた龍斗は深い溜息を吐きつつも、満更でもないのか、それ以上は言わずに茶の間を出て行った。

「何時だって、言うに決まってんだろうが」

戸口を越えて廊下に消えた華奢な背へ、京梧は声立てて笑いながら追い討ちを掛け、のんびりした仕草で立ち上がると、ふらり、台所へ向かい、直ぐに、己達が使っていたのと同じ、硝子の猪口を手に戻った。

彼等の一連のやり取りを、そして京梧の動きを、部屋の隅にて気配を殺し見守っていた天戒は、今こそ……、と人形ひとがたを取った身を揺らせる。

「あいつと違って俺にゃあ視えねぇし、悟りも出来ねぇからな。多分……でしかないが。やがるんだろう、天戒」

────だが。

彼が動くより早く、卓袱台の空いていた席の一つに、コトリ……、と三つ目の猪口を置いて、冷えた酒で満たした京梧はよく通る声を放ち、気付かれてはいないとばかり思っていた彼の思い掛けぬ言葉に、天戒は、ぴたりと動きを止めた。

「あっちもこっちも襖が開けっ放しのお陰で、さっき、ひーちゃんが、お前に呼び掛ける声が洩れ聞こえた。……あいつが名を呼んだんだ。『そういうこと』だろう? あいつに呼ばれたからか、それとも、二年前の墓参りで顔付き合わせた時の説教の、続きでもしに来やがったのかまでは知らねぇが。……ま、大方、説教の方だろうがな、てめぇは。鬼の大将だったくせしやがって、糞が付く堅物でやがったから」

『馬鹿』に罰を当ててやろうと振り掛けた腕もそのままに、天戒は驚きに目を瞠ったけれども、京梧は、一人勝手に話を進める。

「二年前に言った筈だぜ? 何時か必ず、龍斗と二人で『そこ』に逝くから、そうしたら又、あの頃みたいに呑もうぜ、ってよ。あの世の酒が美味いか不味いかは知らねぇが、呑むも良し、立ち合うも良し、とも。だから、足りない分の説教なんざ、その時にすりゃあいいだろうが。それまで、ほんの数十年ぽっちだ。待てんだろ、それぐらい。一々出てくんじゃねぇよ、こっちの腰の座りが悪くなる」

傍目には、訳の判らぬ独り言にしか思えぬだろう悪態を吐きつつも、自身の猪口にも酒を満たし直した京梧は、天戒の為に整えたそれに軽く猪口の縁を合わせて、再び、一息で煽った。

「…………なあ、天戒」

今は亡き男の名を呼びながら、空けたばかりのそこに、もう一度、彼は酒精を注ぎ、

「疾うに三途の川を渡っちまった、てめぇと差しだからこその話なんだがよ。正直、てめぇとは呑み足りなかったと、今でも思うことがあってな。…………言ってみりゃ、これも、捨て去った筈の未練って奴なんだろうから、龍斗にも聞かせたかないが、思っちまうもんは仕方ねぇ。……だから、あいつが戻って来るまで酒に付き合え。俺の独り言にも」

自身には視えぬモノがそこに在ると確信し切った顔で、ぽつり、呟くように言う。

『……ああ。そうしてやってもいい。それが、貴様の望みなら』

視えてはおらぬのに、解ってもおらぬのに、そんなことを言う馬鹿な男の頼みを聞いた天戒は、彼には決して聞こえぬ応えを返すと、す……と畳を滑り、己の為に置かれた酒の前を占めた。

正しく独り言の如くな京梧の頼みに耳を貸した刹那に、遠い昔々に覚えた憤りも、『馬鹿』に天誅や天罰を喰らわせようとの企みも、彼の胸中からは綺麗に流れ去っていた。

昔々の憤りの代わりに。意趣返し代わりの罰当ての代わりに。彼の胸中を、『答え』が満たしていた。

ここを訪れた直後に感じた一抹の寂しさの。

何故か、何かに向きになっていた己の。

『馬鹿』を睨み付けている内に、どうしてか、気分を沈ませてしまった己への。

────答え。