新宿区新宿五丁目付近から新宿区西新宿界隈という、直線距離にして約一キロ強しかない道程を、口説き落とした稲荷大明神に道案内させ辿る、ってな、常人が持つことは先ず有り得ない発想で以て、龍斗が花園神社を目指していた頃。
京梧達は、新宿通りを暫く彷徨った後、歌舞伎町に足踏み入れていた。
「こっちに来てる筈なんだがなあ……」
すっかり茜色に染まってしまった西の空を仰ぎ見ながら、龍斗の氣が、この辺にも残っているのに、と京梧は渋い顔をし。
「歌舞伎町……。龍斗サン、変なのに絡まれてなきゃいいけどな」
ちらほら姿見せ始めた、風俗店の呼び込みの兄さん姉さん達を眺めた京一も又、渋い顔をした。
「龍斗さんなら、碌でもないのに声掛けられようが絡まれようが、簡単にぶっ飛ばすだろうし、そもそも、龍斗さん、そういうのの言うことは理解不能なんじゃ?」
だが龍麻は、メルヘンの世界の人の子孫なだけあるのか、本能の部分で龍斗の質を十二分に理解しているらしく、暢気に言った。
「言えてる。龍斗サンだかんなー」
「そいつに関しちゃ、俺も思うことは一緒だ。あいつにちょっかい出せるような奴なんざ、先ずいねぇよ。だが、いい加減、心細くなってる頃だろうからな」
何をどう言ってみても、やっぱりご先祖様であるし、大切な人の一人には間違いないから、一応心配はしているのだけれど、どうにも心配しているようには聞こえない龍麻の弁に、内心でこっそり、「流石は、子孫と先祖。よく解ってる」と思いつつ、京一も京梧も、彼の言い分に同意はしたが。
京梧だけは、恋人故の、と言うよりは、保護者、と言った方がより正確だと思える発言をさらっとして、何処かに龍斗への道標になるモノが漂っていないか探る作業に戻った。
「心細い、なあ……」
「龍斗さん、三十代前半の筈だよねえ……」
「……ま、言ってもしょうがねえか」
「うん。言うだけ無駄。──という訳で。俺達には、京梧さんみたいな龍斗さん探知レーダーはないから、この辺りで龍斗さんが行きそうな所でも、思い出してみようよ」
大の大人──しかも男を捕まえて、心細いに違いなかろうよ、と言って退けた京梧を横目で見詰め、色んな意味の愛情を、洪水になるくらい溢れさせてるカップルだよなー……、と遠い目しつつも、現実逃避に走るのだけは何とか思い留まった子孫達は、心当たりを思い出す作業を始め。
「こんな盛り場に、龍斗が一人で来たことな……──。…………ああ。うっかりしてたな。花園が近いんだった」
子孫達の会話を拾った京梧は、そこからは、花園神社が程近いことを思い出した。
「そう言えば、直ぐそこだよな、花園。でも、こっから花園まで、龍斗サン、迷わずに行けんのか?」
「んーーー。無理っぽい気もするけど、『昔』からの馴染みのある場所なら、それこそ、氣とか気配とか、諸々が辿れるのかも?」
「行くだけ行ってみるか。どうせ、序でだ」
「そうだな」
「そうしましょうか」
そうして彼等は、揃ってすっかり存在を失念していた花園神社ならば、上手くすれば龍斗でも辿り着けるかも知れないと、神社の方角へ向き直った。
縁日が立っている訳でもない日の、もう間もなく日が暮れる頃合いの花園神社に、人の姿は殆どなかった。
時折、足早に境内を抜けて行く者を見掛ける程度で。
そんな、閑散とした花園神社に、奇跡的に無事辿り着いた龍斗は、境内のほぼ中程にある、稲荷神の社の前に立った。
やはり、お神酒か何か捧げなければ、口説き落とすのは難しいだろうか……、と打算的なことをちょっぴりだけ思いつつ、そろそろー……っと、さもご機嫌を伺うように、格子の隙間から小さな社の中を覗き込み、心情的には恐る恐る、彼はお稲荷様に話し掛ける。
尤も、恐る恐る話し掛けた、と思っているのは当人ばかりで、多分、叩き起こさんばかりの意気込みで、と表現した方が、より正確だろうが。
「この地の総鎮守に、このようなことを頼むのは気が引けるのだが、私は今、切羽詰まっているのだ。だから、すまないが、私の頼みを聞き届けて貰えないだろうか。何としてでも、家に戻りたいのだ。もうこれ以上、迷う訳にはいかない。だから、出来れば『何か』、『貸して』貰えると有り難いのだが」
近付いて来る者がいないか、通りすがる者がいないか、これでもかっ! ってくらい辺りに気を配りつつ──何故って、そんな風に稲荷神の社に向かって話し掛けてる処を目撃されたら、変な人と思われる、程度の認識は彼にもあるから──、龍斗は、お稲荷様に訴えてみた。
けれど、お稲荷様からの返答はなかった。
──お稲荷様が龍斗に返事をしなかったのは、寝ている処を叩き起こされたからではない。
相手は、この国に御座します八百万の神様の一柱、龍斗が言葉や想いを交わす『皆』の中でも『格上』な存在だからして、彼が花園神社に足踏み入れる直前から、その訪れを察していた。
龍斗の頼みが、余りにも馬鹿馬鹿しかったから無視しちゃった訳でもない。……一応。
ヒト以外の全てを視て、ヒト以外の全ての声を聴き、意思までもを受け取れるような人間なぞ、全世界規模で捜したって先ず滅多にお目に掛かれはしないというのもあって──他にも理由はあるのだけれど──、『皆』は、龍斗のことを大層好いている。
『皆』の内である神様達だって、龍斗のことは好いている。
ぶっちゃけ、『皆』、龍斗のことは愛おしくって堪らない。
故に、その口から洩れた頼みが、どうしようもなく馬鹿馬鹿しいことであっても、完全無視を決め込んだりはしない。
他ならぬ龍斗のたっての頼みなら、この世の理に触らない範疇で、との縛りはあるけれども、何とかしようとはしてくれ……ないこともない。
そんな『皆』の内のお稲荷様が、それでも返事をしなかったということは、何らかの意図があるからで。
けれど、何時間も新宿の街を彷徨い歩いて、何時も通り迷子になっちゃって、疲れちゃって、心細くなっちゃって、京梧に説教されるかも知れないと怯えちゃって、疾っくに、どうしたらいいのか判らなくなっちゃってる龍斗には、お稲荷様の意図は汲めなかった。
そんな知恵、廻らなかった。
もう、何としてでも稲荷神を口説き落とす! ってな気合いも生まれなかった。
だから、頭の片隅で、「やっぱり、お神酒か油揚げか何か……」と、お稲荷様に失礼なことを少しだけ考えつつ、すごすご、その場より離れた彼は、神社拝殿裏の、楓と桜の木の間に座り込み、小ちゃくなって項垂れた。
…………京梧が仕事に行ってしまって、ちょっぴり寂しかったから。
でも、疲れて帰って来るかも知れない彼に、何時もよりも少しだけ頑張った夕飯を食べさせてあげたかったから。
……それだけのつもりで出掛けたのに。
大人しく家にいれば、今頃は、夕餉の支度なんか疾っくに終えていただろうに。
それ処か、帰って来た京梧を出迎えて、労って、一緒に食事をしている頃だったかも知れないのに。
どうして私は、何時もこうなのだろう。
────膝抱えて踞って、項垂れ続けた彼は。
ぼうっと、地面を見詰めながらそんなことを考えてしまって、本当に本当に、悲しくなった。
だと言うのに、見詰め続けた地面は、昔から、秋の日はつるべ落としに日が暮れて、と言われている通り、あっという間に暮れ、夜となった空の暗さを写し取り、真っ黒になってしまい。
もう京梧が帰っていたなら、きっと、何故、言い付けを守れぬのだと怒りながら、心配しているのだろうな、休みもせずに、私を捜しに出たのだろうな……、と黒くなった地面を眺めながら、ふっ……と思った龍斗は。
「京梧…………」
ぽつり、伴侶な京梧の名を呟いて──端でそれを聞いている者がもしもいたなら、親を呼ぶ子供のトーンだった、と表現しただろうが──、暗くなってしまった空を見上げてから、再び立ち上がった。
悲しくて、心細くて、本当はこのまま、京梧の名を呼びながら踞っていたいけど。
落ち込んでいたって、挫けていたって、家がこちらへ歩いて来てくれる訳じゃない、だったら頑張らないと。だって、きっと京梧が心配してるから! ……と、残り僅かな元気と、尽きない根性を振り絞って。