龍斗が叱った通り、誠にぞんざいに京梧が京一へと放り投げた物は、少々の厚みのある大きめの茶封筒だった。
表にも裏にも何も記されていないそれの中身は紙束のようで、「何だ……?」と京一は、首傾げつつ片手でそれを取り上げて。
次の瞬間、彼は、思い切り眉を顰める。
……中身を確かめる前に京一がそんな顔をしたのは、脳裏に、或る光景がフラッシュバックしたからだった。
遡ること一年半前。
京梧と龍斗が再会を果たした翌日。
駆られた、「自分達が、この、厄介で傍迷惑で人騒がせで『現代初心者』な二人の面倒を見てやらないといけない」との想いに従い、京梧と龍斗には何も相談せぬまま勝手に手配し、己が先祖達に『仮住まい』の賃貸契約書を押し付けてやった、あの時の光景が。
だから彼は、あからさまに眉を顰めながら、何となくヤな予感がすると、こめかみ辺りに、ツ……、と薄い汗を伝わせつつ、恐る恐る、茶封筒を開いた。
凶悪な何かに触れるかのように、そろそろと、開いたそこに手を突っ込めば、思った通り、指先に触れたのは何枚かの紙で、捕って食われる訳じゃなし……、と勢い付けて中身を引き摺り出した彼は。
「…………………………は?」
一枚目の紙──正しくは、『書類』の冒頭に書かれていた文字に目を走らせ、一瞬の沈黙の後、悲鳴に似た高い声を放つ。
「京一? その書類がどうか……────。………………へっ? 全日本剣道連盟加入申込書……?」
書類の束を、両手でガシッ! と掴んだまま固まった京一の横から、同じく書類に目を走らせた龍麻は、声に出してそれを読み上げつつ、バッ! と、それを取り上げた。
「今さっき言ったろうが。『ここ』の持ち主は拳武館で、あそこの出先の一つってことにゃなってるが、法神流剣術の道場でもあるし、緋勇の家に伝わる陽の古武道の道場でもある、ってな。剣術じゃなくて剣道ってのは、どうにも俺は好かねぇが、そっちの方もやらねぇと、生徒、ってのが集まんねぇんだよ。弟子がいなきゃ潰れちまうだろうが、道場なんざ。判ったら、とっとと書き込め」
「世知辛い話だが、末永く続けて行く為には世間体のようなものも必要だと、鳴滝館長に説かれたのだ。拳武館の者達から月謝は取れぬし、『管理人』の給金など出ぬしな。──そういう訳で、龍麻。その下に、古武道の『ざいだんほうじん』とやらの書類もあるから、お前は、そちらの方に署名と捺印をしてくれないか」
けれども、これは何……? と目を点にして書類を凝視する子孫達に、京梧はケロリと言って退け、龍斗は横から手を伸ばして、二枚目の書類を引き抜き、つい、と龍麻の方へ押し出す。
「え……? いえ、でも……。それこそ、何でですか……? って言うか、全く話が見えないんですが……。どうして、俺達がそんなこと求められてるんです……?」
「言い分は……判らねえでもねえけど……、でも、何で俺やひーちゃんが、署名しなきゃなんねぇんだ? シショーや龍斗サンがすりゃいいことだろ? これじゃ、まるで…………」
どうして、自分達がそんなことの手続きに関わらなくてはならないのかの理由が飲み込めず、混乱している内に、テキパキ、龍斗の手によって湯飲みや菓子皿が片付けられて綺麗にされたそこに改めて広げられた各々の書類を、只、馬鹿面を晒しながら、龍麻と京一は凝視した。
「…………何時まで経っても、しみじみ馬鹿だな、俺の馬鹿弟子は……。『あの日』に言ったろうが。お前に、『神夷京士浪』をくれてやる、と。だから、今の法神流剣術の宗家は、てめぇだ、馬鹿弟子。ってこたぁ、『ここ』のヤットウの方の道場主も、てめぇじゃなきゃおかしな話になるだろうが」
「龍麻。お前もだ。お前だけが、唯一正統な陽の古武道の継承者なのだから、お前が、私達の流派の宗家で、『ここ』の、古武道の方の道場主だ。お前達がそれぞれの宗家なのだから、私達が勝手に、こういった話を進める訳にはいかぬだろう?」
「…………………………………………は?」
「……………………へっ? え、ええと……?」
じーーーー……っと、目の前にある物がどうしたって理解出来ぬと言わんばかりの顔して、穴が空く程書類を見詰めてから、チロ……、と上目遣いを寄越してきた子孫達に、京梧は大仰な溜息を吐きながら、龍斗はあっけらかんと告げ、この二人は一体何を言っているのかなー……? と、子孫な二人は揃って一層の馬鹿面になった。
「えっと……。でもですね、でも、俺達…………。……ねえ? 京一……?」
「あ? ……ああ。例え、建前の上ではそうだったとしたって、俺達は……。……それに、そういうことは、シショーと龍斗サンで──」
「──そういう訳にはいかない。私達は『今』の者ではない。『昔』の者だ。お前達からしてみれば些細なことであろうとも、私達の名を表に出す訳にはいかない。……私達は、本来なら、ここでこうして生きることは許されぬ身なのだと、お前達も判っていよう?」
「でも……、だったら何で、あのオッサンの話に乗っかった挙げ句、わざわざ道場なんか開かせたんだよ。理由の半分は、シショーと龍斗サンの好みの所為だとしても、何か、全体的に話が矛盾してねえ? 『龍命の塔』のことにしたってそうだろ? 誰かが護らなきゃなんねえってのは俺にだって判らなくねえけど、『余計』な連中がちょっかい出さねえように護るだけなら、『力』がある奴じゃなくったっていい筈だぜ? 自分達の存在を隠し通さなきゃならねえってなら、そこからして、引き受けるのは変な話だろ?」
そうして、そんな風に馬鹿面を晒したまま、龍麻と京一は、戸惑いも露に辿々しく言い募り始め、暗に、そういうことには関わりたくない、と訴えてくる二人を諭すように龍斗は語ったが。
何とか、少なくとも混乱だけは振り切ったらしい京一は、疑問を捲し立て始めた。
「……ま、馬鹿弟子の言う通り、矛盾っちゃ矛盾だな。何も彼もが。──江戸の頃に生まれた俺達が、この時代にこうして生きてるってことは、本来なら有り得ねぇ話だし、有っちゃならねぇ話だ。だから、その筋だけを通すなら、鳴滝の話に乗っかったことからして間違いなんだろうが。それでも、俺達は奴の話を引き受けた。…………その理由の一つは、『ここ』が、かつての鬼哭村だからだ」
京一の、矢継ぎ早な問いに答えたのは、京梧。
「俺達にも、『荷物』がある。犬神の野郎に、今でも真神を護らせてるのに似た、感傷、って『荷物』がな。……だから。例え間違いだとしても、生きてる間くらいは、この場所を護ってみるかと決めたんだ」
「…………あの。矛盾してても、間違いでも、大昔は仲間達の村だったから、ここの護人を引き受けることにした京梧さんと龍斗さんの気持ちはよく判りますし、そういうことなら、それに関しては、それでいいんじゃないかなって、俺は思いますけど。それと、俺達にこの書類を押し付けてくることとは、どうしたって繋がりませんよね? 『その』理由は何────」
自分達が、自分達にとっての『本当の時代』を生きていた頃、『ここ』が鬼哭村だったから、と馬鹿弟子の問いに答えた彼に、それは、『この理由』にはならない、と龍麻は言ったけれど。
「────お前達にも、還る場所が要るだろう?」
彼の言葉を、半ばで龍斗が遮った。
「え? 還る場所?」
「お前達が、私達の事情を弁えているように、私達も、お前達の事情は弁えている。お前達自身が語ってくれたから。…………龍麻。綻んでしまった、お前の中の黄龍の封印をどうすれば良いのか、それは私にも判らない。一度、『皆』に尋ねてみたが、答えては貰えなかった。だから、それに関しては助言も何もしてやれぬが、求める答えを探して世間のあちらこちらを訪ね歩いているお前達が、折に触れ還る場所を拵えてやることくらいは出来る。……蓬莱寺の家や緋勇の家に、根を下ろすつもりはないのだろう? 両親
「………………えーーー……と。……すみません、龍斗さん。意味が、よく…………」
「私の言っていることが、飲み込めぬ訳でなかろうに。……お前達は、誰よりも強くなる為だけに、旅をしているのではないだろう? 黄龍の封印の綻びを正す為の術と、その『力』故に中々定められぬ『安住の地』を探す為の旅でもあるのだろう? 私達は、その多くには手を貸してやれぬが、時折の『安住の地』くらいなら拵えてやれる。……それが、私達が鳴滝館長からの話を引き受けた理由の二つ目だ。…………私は、さっきから、そういう話をしているつもりだったのだが……、もしかして、本当に通じていなかったのか?」
こぽこぽ、音立てながら急須に湯を注ぎつつ、子孫の言葉を遮っての龍斗の話は、そんな風に続き、
「……へ?」
「……は?」
ひと度、龍斗が口を噤んだ瞬間、龍麻の目も、京一の目も、見事に丸くなった。