「うわうわうわうわうわ……。ど、どうしよう……。どうしよう、甲ちゃん!」

お前自身が望むなら、己が『葉佩九龍』であると言う証を拵えて貰うが、と龍斗に言われ、九龍は激しく焦った。

──九龍は、自分で自分を『葉佩九龍』と定めた。

『かつての己』をくしてしまったから。

……だから、と言うべきか、しかし、と言うべきか、それを、大切な人達に何も言わずに受け止めて貰って二年近くが経った今でも、未だに彼の心の何処かには、今の己に関することの何も彼も、自分で勝手に決めたこと、と言う想いがあり。

故に、『葉佩九龍』名義の正式な日本国籍は、非合法な手段で拵える『紙切れ一枚』でしかなくとも、彼にとっては、酷く魅力的な『紙切れ』だった。

だから、彼は忙しなく両手を振って、どうしたら!? と傍らの甲太郎に訴え、

「九ちゃん、落ち着け……」

鬱陶しい、と甲太郎は、又、アロマのマウスピースを音立てて噛んだ。

「だってさ!」

「だから、うるさい。──お前が欲しいと思うなら、便乗させて貰えばいい。要らないと思うなら、断ればいい。それだけの話だ。所詮、紙切れ一枚のことだしな」

「う、うん。それはそうなんだけど。判ってるけど! でも、俺にとっては、すんごく魅力的な『紙切れ』って言うか! 非合法に拵える物だろうが何だろうが、俺は葉佩九龍なんだって、お国にも認めて貰えるようになるってことっしょ!? あ、でも。本籍地とか現住所とかって……?」

「お前さえ構わなけりゃ、書面の上の住まいは、『ここ』にすりゃあいい。固より、そのつもりだしな、俺達は」

甲太郎に嗜められても、九龍は声を上擦らせる一方になって、何本目かの団子の串を銜えながら、京梧は、「ほれ」と、京一達に渡した書類の中から一枚を抜き取って、彼の前に突き出す。

「それに必要なこと書いときゃ、後は鳴滝が何とかしてくれるとよ。二人分拵えるのも、三人分拵えるのも、手間は一緒だと」

「私達にとっては『懐かしい場所』でも、ここは、お前にとっては、本来なら近寄りたくもなければ存在すら思い出したくもない忌まわしい場所なのかも知れないと、承知はしているが。誰の為にもならぬモノは、私がきちんと封じたし、これからも封じておく。もう八年も前のことだと言う『出来事』も、この場所に眠っている『龍命の塔』の片割れそのものも。ここで命を落とした数多の若者達の魂も無念の想いも、久遠の眠りを得られるように鎮めてみせよう。……今の世で生きている限り、私達はここを護り続ける。そうしようと決めた。だから、お前達の誰も、案じることは何も無い。…………但。九龍、お前の気持ちの話は、又別だから。お前が、それで構わぬと言うなら」

えーと、と。

突き出された書類を眺めながら、少々深刻そうに小首傾げた九龍に、京梧は酷く簡潔に、龍斗は言葉を尽くす風に言って。

「過去は過去です。しかも、今の俺じゃない、昔の俺の過去です。《お宝》目の前にして、高が昔の、今はもうどうでもいいことなんか、俺が気にする訳ないじゃないですか! だって、『実家』が出来るんですよ、『実家』! ひゃっほーーー!!」

『答え』以外の何物でもない叫びを、握り拳まで固めて、九龍は声高に放った。

「…………最強だな」

「ん? 甲ちゃん、最強って何が?」

「馬鹿だってことがだ。馬鹿は、この世界最強のスキルだ。今、俺は、しみじみそう思った」

喜色満面で叫んだ九龍に、本当にうるさい、と甲太郎はわざとらしく片耳を手で塞ぎながら、心底、呆れてみせる。

「……甲ちゃん、俺、馬鹿にされてる? それとも、貶されてる? 褒められてないってことだけは判るけど」

「褒められてないってことが判ってるだけ、進歩だとは思うが。馬鹿にして、且つ、貶してるってことにも気付けるようになった方がいいぞ、九ちゃん」

「………………あー、そりゃ、悪ぅございましたー……。……何だよ、甲ちゃんの馬鹿。イケズ。折角さ、京梧さんと龍斗さんがさ、俺にもあったらいいのになー、って心秘かに思ってた実家作ってくれるって言ってくれてるのに。そりゃ、昔のこととか、ちょっぴりでも気にならないって言ったら嘘だけどさ、そんなの、念願の実家! の前じゃ、些細な、どうだっていいこと! って、ぽぽいのぽいって丸めて捨てられることだもん。だってのに、甲ちゃんは──

──あー、判ったっ。判ったからっ。黙れ、鬱陶しいっ。俺も、少し言い過ぎたって認めてやるからっ」

馬鹿最強、と呆れ返った甲太郎に言い切られ、素敵気分に水を差されたと、九龍は畳にのの字を書いてイジケ始め、ドコっ! と、甲太郎は、そんな彼の後頭部をド突いた。

天香学園で日々を過ごしていた頃、家族とか、家庭とか、それこそ実家とか、そういう類いのモノを喉から手が出る程に望んでいた九龍に投げ付けるには、少々乱暴過ぎる言葉だったかも知れない、と内心で思いながらも、たった今悟った、馬鹿最強、と言う自説を撤回する気は彼にはなかったので、九龍の頭を引っ叩く腕に、手加減はなかった。

「ホントーー……に、何時まで経っても甲ちゃんは愛が無い……。おまけに可愛くない……」

「だから、頼むから黙れ…………」

「処で、甲太郎? お前はどうする?」

おのが頭を引っ叩いた甲太郎の腕に手加減がなかったから、九龍はブツブツを再開し、本気で鬱陶しいと天井を仰いだ甲太郎に、不意に、が、さらりと龍斗が問うた。

甲太郎には判らぬように、こっそり、九龍にだけ悪戯っぽい笑みを見せながら。

「は? 俺が何をどうするって?」

九龍の非合法国籍の話をしていたのに、急に自身に話を振られ、今度は甲太郎が首を傾げた。

「お前と九龍は、共に、互いを家族と定めた仲なのだろう?」

「……? それが?」

「ならば、人別の上のことだけだとしても、お前と九龍の住まいは、同じ方が良かろう?」

「…………龍斗さん、あんたの言ってることは漠然とし過ぎてて、意味が判らない」

「だから。お前も、ここに籍を移すか? と訊いている」

「俺の、戸籍と住民票をか?」

「そうだ。その、何とかと何とかを。お前のそれは、今でも、生家に置いたままなのだろう? ……このような話はされたくもなかろうと判ってはいるが。生まれ育った家や親御と、お前の折り合いは悪いのだろう? 私も、両親ふたおやとの折り合いは決して良いとは言えなかったから、それを兎や角言うつもりは毛頭ないし、お前の話を聞いた限りでは、生家に愛想を尽かすのも無理なかろうから。お前に異存がなければ、何やらを、ここに、九龍と共に移してしまう方が、お前達にとっては都合が良いかと思って」

どうしてこのメルヘン星人は、大抵の場合、余り要領を得ないことから言い出すのかと、渋い顔する甲太郎に、龍斗は、にっこりを深めてズイズイと迫りつつ、区役所から貰って来た──言うまでもなく、龍斗や京梧が貰って来たのではない──転籍届と転居届の書類を、突き付けるでなく、そっ……と差し出した。

至極わざとらしく。

「何なら、私か京梧の何方かと、養子縁組しても──

──断る。断固拒否だ。絶対に断る」

「…………そこまで嫌がらずとも良かろうに」

そのまま、一層甲太郎の面におのが面を近付け、まるで艶っぽい何かを迫っている風に、養子縁組、などと龍斗が口にしたので、甲太郎は、この上無く迫った彼の面を遠慮なく押し返して、あからさまに身を引いた。

だから、確かに冗談で言ったことだが、そんな態度を取らずとも、と、ちょっぴりだけ龍斗は拗ねて、

「甲ちゃん! 甲ちゃん、甲ちゃん! 甲ちゃんは!?」

じりじりと後退りを続ける甲太郎へ、九龍は、有らん限りの期待を込めた、キラッキラした眼差しと笑みをぶつける。

「あー…………。…………お前の好きにすればいいんじゃないか……?」

若干だけ悩んだものの、彼の、手に取れる程の期待に甲太郎は抗えず、勝手にしろと、カチカチ、アロマパイプのマウスピースを噛みつつ有らぬ方を向き、

「馬鹿シショー。俺達、三文判も持ってねえぞー」

「えーと。これ、拇印でもいいんですか?」

うんうんうんうん唸り続けた果て、漸く、巨大過ぎる熨斗付けて返された一年半前の貸しからは、自分達の誰も逃れられないかも知れない、と腹を括ったらしい京一と龍麻が、署名はした、と先祖達を振り返った。